すべては関係性のうちにある。だから実体としての自己というものはない。「わたくしという現象は/仮定された有機交流電燈の/ひとつの青い照明です」と宮沢賢治が詠うように、本来の自分、本来の私といったものは実在しない。それが仏教の教えだ。
だから、例えば俺に害をなす人間がいても、そいつのことを本来悪い奴だなどと考えてはならない。すべては縁起によるのだから、そいつが悪い奴のように見えるのも、たまたまそいつと俺との関係が悪縁だっただけなのだ。そして、その悪縁は俺自身もその構成要素になって作り出しているわけだから、そいつが悪い奴のように現象しているのは俺に責任があるのである。
そして縁起のネットワークは万物に及んでいるのだから、俺はこの世界のすべてのものに責任がある。環境問題も中国の核開発も隣りの親父が助平なのもすべて俺の責任である。どうにかしなければいけない。
万物は無限である。だから縁起によって俺が背負いこむ責任も無限である。しかしそうは言っても俺自身は有限な存在だから、無限の責任を果たすわけにはいかない。だから謝るしかない。すべてのものに頭を下げて、ごめんなさいと言うしかない。これは、信仰によってしか乗り越えられないアポリアである。
しかし、とにかくも責任を自覚した人間は、いかに有限であってもせいいっぱいの努力をしなければならない。悪い奴がいるなら、そいつを悪い奴のように現象させている悪縁を良縁に変える努力を、俺自身がしなければならない。そういうように、責任の自覚にもとづく主体的な努力の方向へ人の背中を押すのが、本来の仏教のあり方である。
もっとも、こうした積極的な方向で仏教を理解している奴は少ない。寺の坊さんでも縁起の思想を誤解しているのがほとんどで、例えば“女は差別される因縁にあったのだから、差別されても我慢しろ”などと説きかねない坊主がいっぱいいる。しかし本当は逆でなければいけない。俺が女で、あるいは被差別部落の出身者で、いわれのない差別を受けたとしよう。そのとき俺が抗議するのをやめて黙っていたなら、差別する側の人間はそのまま「差別者」という悲惨な状態に置かれ続けることになってしまう。これは、仏の慈悲に反することである。因縁によって生かされている自分を自覚するなら、なおさらこの世界を覆う差別という悪縁を自分の責任として自覚し、それと闘い続けるのでなければならない。
この世界のすべての事象について、それを作り出しているのは自分であると自覚し、それを作りかえる努力をしていくこと。それが、前回述べた「大人の態度」である。そうした視点から眺めてみれば、今日の主流になっている言説がいかに情けないものであるか、よくわかるだろう。
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