何が「常識」で何が「教養」か、ジャーナリズムが語ることが「常識」ではない、時には教科書に書かれていることにすら嘘があると、保守の論客は語る。
私がどこかで学んだとことといえば「すべての人が正しいと思うことはファシズムである」ということであるけれども、その意味からすれば「常識」や「教養」の闘争状態は、まだしも健全な状態といえるのかしら。
西村ナニガシという政治家が問題発言をして、セイムジカンか何かを辞めさせられましたが、ある大学の先生は、「個人の発言としてはいまでも正しいことを言ったと思っている」という彼のその後の言葉に大変な憤りを語っていました。政治家の発言に「個人の発言」も何もない、というのがその先生の意見のようです。
けれども、なるほど「個人の発言」であろうと何であろうと、西村ナニガシの発言はひどいものだと思うけれども、「これが私の意見だ、議論を喚起することが何が悪いのだ」という彼の意見にも一見の価値はあるように、私は思ったのです。
というのも、こういう発言が過去にも何度も飛び出しては、内外の顰蹙を買い、その政治家が更迭されるということは繰り返し起こっているわけですが、それは自民党の内部にそうした意見が少なからず明らかに存在しているということを示しているだろうからです。だとすれば、それを明らかにすればいいじゃないか。
そう思うと、自民党なり、政府なりが、どうしてこれまでそのことを隠そうとしてきたかということの方が、いぶかしく思われてきたりするのです。ここには、「個人」と「公人」(あるいは「政治家」?)との関係のように「自民党」と「政府」との関係があって、「自民党」としては核を持って、国旗掲げて戦争しに行ったら良いと思っているけれども、「政府」としては決してそんなことはないといったことなんでしょうか。(もっとも国旗は掲げることになったけれども。)政府は非核三原則は遵守すると言っているけれども、それが何故で、実のところどう思っているのか、どうもよく分からない。
問題は世論なのか、あるいはアメリカやアジアの感情なのか。取り締まるべきものが猥褻だとすればヘアーはもはや猥褻ではなくなったようであるけれども、いったい何が「常識」であるのかはっきりさせてもらいたい。
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