さて、話を終わる前に、少しは祝辞らしいお話もさせていただこうと思います。この汚い本は私が大学時代に愛読していた本で、フランスのメルロ・ポンティーという哲学者の『眼と精神』という本です。その中から一文を読み上げさせていただきたいと思います。

 「アランが言っていたように、誰かを愛するということは、その人に知っている以上のことを誓い、肯定することです。それは或る程度、判断の自由を放棄することです。いったい他人を経験するとき、われわれはおのれの中に安住してはいられないものですし、またその故にこそ、他人の経験はつねに疑惑の機会ともなりうるものです。そうしようと思えば、私は、私に対する相手の感情の真実性を、きびしく疑うことができます。相手の感情が絶対的に私に証明されることは、決してないからです。愛していると言う人も、自分の生涯の全瞬間を、愛する相手に与えるわけではありませんし、のみならず、それを強制すれば、彼女の愛も萎えてしまいましょう。そこで、中には、こうした明白な事実に当面して、それをあたかも愛の拒絶であるかのように受けとり、そしてついに信頼することを拒み、またつねに有限でしかない証言から限りない断定を下しうることを信じまいとする人が、出てくることになります。(中略)

 病的ではない正常な態度というものは、証明しうる以上のことを信頼することに、すなわち感情の真実性に対して差しはさみうる疑惑を、<実践>の寛容さによって、つまり実行のなかでおのれを証明するような行為によって、文字通り克服していくところにあるのです。」    


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キムチ
 

 

 

キ ム チ p r o f i l e

 

 読み上げただけではわかりにくいと思いますが、愛するということは、強く愛すれば愛するほど、相手の全てを共有したいという気持ちになりがちです。ところがそんなことは不可能ですから、相手を逆に疑ってしまうということも起きる。それがたとえば嫉妬の感情です。ところが、相手の人も一人の独立した人間であるわけですから、その相手を一人の独立した人間として愛するということは、実は、相手の人間には、自分の知り得ない部分も存在するのだということを認めてあげて、その上でその丸ごとを愛してあげるということでなければならないことになります。それは相手を「信頼」するということによって可能なことです。だいたいそういうことが書かれていると思います。

 この原理は、愛する相手にだけ当てはまることではないように思います。社会というものは不思議なもので、どこかでこの「信頼」ということが働かないと、社会全体が立ち行かなくなっていくものであるように思われます。そして「信頼」は、それが真実であるから行われるのではなく、<実践>的な行為として選択されなくてはならないもののようです。それを「実行のなかでおのれを証明するような行為によって克服していく」ことだと、メルロ・ポンティーは言っています。

 お二人は愛を育まれていまこのときを迎えておられるわけですから、このお話はきっと言わずもがなで、よくご承知のことだと思います。けれども、記憶のどこかにこのお話を覚えていてくださると、次ぎにお二人が子どもさんを設けられるようになって、その子どもさんが成長されるときに、このお話が役に立つこともあるかもしれないな、という風に思います。

 大変つたないお話でしたが、これでお祝いの言葉とさせていただきたいと思います。本日はほんとうにおめでとうございました。

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