顧みて、自分が不愉快になる理由は、この吉岡氏の指摘に当てはまるように思う。既にコーヒーを注文しているのに、改めて「コーヒーでよろしかったでしょうか?」と尋ねられるのは、一つ前の段階にふり戻される気がする。あるいは自分が指示を受けたことへの責任を転嫁されているように感じる。これはこっちの感性が偏狭なのだろうか。
実際にところ、困ってしまうのは例えばこんな状況だ。630円の商品を購入するのに、1000円札しかない。1000円札を差し出すと店員が「1000円からでよろしかったでしょうか?」と尋ねる。こっちは1000円札しかないことを確認したからこそ、そうしているのに改めて「1000円からでよろしかったでしょうか?」と言われると、またしてもその選択に関して反省しなければならないことになるではないか。<あれ、やっぱり30円硬貨で出した方が良かったかな?
硬貨あったっけ?> とか、もう一度考えてみたりしなければならない。ここで「1000円からでよろしいですか?」と尋ねられることとは、微妙にニュアンスが異なる。塩田氏の言葉を借りれば、「1000円からでよろしいですか?」は許可を求めているのであり、それに対する「結構です。」という返答は、釣りが細かくなってもかまわないというニュアンスを暗に含むのである。そこで「よろしかったですか?」とやられると、自分の確認自体を疑問に付されることになってしまう。
吉岡氏は「よろしかったでしょうか」は、客に対する配慮が足りないのであり、「状況に応じた表現の工夫ができない。マニュアル化現象の最たるものだ」と指摘する。今後、マニュアル通りに接客する店では生き残り、逆に客に配慮できるプロは使わなくなる、だろうと。
私の知人の国語学者は、敬語は徐々に華美になるものであり、言葉の中でももっともうつろいやすく、流行するにつれて、だんだんとそうした表現でないと物足りなくなってくるものだ、という。例えば、「貴様」や「お前」がかつては最上級の二人称であったように。この場合でいえば、自分が既に言い付かったことに対してもへりくだって確認するニュアンスに丁寧さを表現しようとしているのだろうと。私はといえば、既に聞き終わったことについてさえ曖昧にしてしまうそのいい加減さが気に入らないのである。
朝日新聞の記事は加えて、各サービス業がこの現象をどう受け止めて、どう対処しようとしているかを取材している。日本マクドナルドは「確認に重きをおいた丁寧表現だろう」としてマニュアルには存在しないが黙認する、としている。客の8割が50歳以上であるという三越大阪店は、新人社員教育で「よろしゅうございますか」というように指導しているという。「スカートはよろしかったでしょうか、と売り込むのはおしつけがましいことです」と回答するのだが、これはどうも文脈を間違っている気がする。帝国ホテル大阪では、ホテルで使うのはふさわしくないと総支配人室でいいかわしたという。
より保守的な企業ほど、変化に対して慎重であるさまが読み取れる。
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