●ビリケンさんは日本では通天閣(大阪・新世界)がほぼ唯一だと思っていた。確かアメリカで考案された神さんで、大阪での第五回勧業博覧会(明治36年)の跡地利用の時にルナパークというアメリカのテーマパークと一緒に輸入された、という程度は知っていた。田村駒という商社が商標を持っている。ビリケン音頭もある。
●今年一月の朝日新聞紙上で切り絵の成田一徹氏が神戸・兵庫区の松尾稲荷神社のビリケンさんを紹介してあるのを見て驚いた。それはあの愛嬌のあるビリケンさんではなく、カレーパンマンとハクション大魔王と笑うセールスマンを足して踏んづけたような異形をしているではないか。しかし確かにビリケンさん。
●松尾稲荷神社に行くと、神戸のビリケンさんは「松福様」とも命名されて、社の一番奥に鎮座ましましておられた。通天閣五階のビリケンさんよりも二まわり程大きく、鋳物製なのか、黒光りしていた。顔は切り絵で見るよりも優しい。
●「松福様」は、米俵の上に座り、右手に打出の小槌、左手に宝珠を持ち、バックには大きな小判が配されている。要するに神戸では頭巾と袋はないが、大黒さんバージョンで祀られていたのである。短いが放り出した足の裏が隠れる位の涎掛けも付けており、お地蔵さんチックでもある。成田氏は「左手に瑞玉(みずたま)を持ち」と書いている。
●ビリケンさんは、明治41(1908)年にカンザス市(ミズーリ州)のフローレンス=プリッツ女史(美術家)が夢のお告げに従って彫刻したのが最初だという。翌年に 27代大統領となったタフト氏のあだ名が「 Billy 」だったことから「Billiken」と名付けられたというのが通説。同年からシカゴの Horsmanという人形メーカ−がビリケンさんの人形を売り出したという。関連が深そうなキューピーよりも早く誕生していることになる。
●キューピーはヴィーナスの子キューピッドを模したもの、と分かる。安野光雅の『算私語録その2』(朝日新聞社)には、大正3年発行の本から「裸體に翼を負へる盲目の小児」と紹介されてあるが、ギリシア神話にそういう説でもあるのだろうか。
●ビリケンさんには他に、中国の「Joss」という神さんを模したとか、アラスカのエスキモーのHappy-Jackの「ベリケン」という置物が元祖だとかという説もある。後者は『招福縁起物大図鑑』という本に載っているようだし、米国の研究者もウエブ上で発表している。
●神戸のビリケンさんは、大正の初めに洋食屋が客寄せの為に作ったものが、松尾稲荷に奉納されたものだそう。神戸っ子は大阪・新世界より前からあったと考えている人も多い、という。
●しかし橋爪紳也氏などの本を見ると、上述の様に勧業博覧会跡地を「新世界」と名付け、ルナパークと初代通天閣(75m、明治45年〜昭和18年)がオープンした時にビリケンさんも居たということになっている。その年の7月末には大正に入るので、新世界で祀られてすぐに神戸、が順当なところか。大正の宰相寺内正毅は頭が尖っていたか「ビリケン首相」と云われた、という。
●初代通天閣は土台が巴里の凱旋門、上がエッフェル塔、そこから放射状に道を作った。ルナパークはアメリカのテーマパーク。香港のタイガーバームガーデンも驚く国際性である。初代通天閣は昭和18年に失火により解体され、国(軍)に鉄を供給したそうだが、本当だろうか。小拙は単に空襲の標的になる事を避けて解体した様に思う。
●そのビリケンさんは、初代通天閣の中に居たのではなく、ルナパーク内のホワイトタワーという建物の中に「ビリケン堂」が祀られ、鎮座していたということである。
●日本のルナパークは、明治43年、東京の浅草六区に出来たのが最初。ルナパークと共にビリケンさんも輸入されたとすると、浅草六区にもビリケンさんが居た、とする考えは成立しないだろうか。小拙は浅草にも居た、と見る。仁丹塔の中か。白秋の「東京景物詩」に「ルナアパークの道化もの」という件があるそうな。林海象の映画「夢見るように眠りたい」では仁丹塔の実写が出る。
●新世界のルナパーク、初代通天閣が無くなり、ビリケンさんも忘れ去られた。現在の二代目通天閣(103m、昭和31年〜)が出来てもビリケンさんは帰ってこなかった。ルナパークにあったビリケンさんはどこへ行ったのか。初代通天閣の写真は当時の絵葉書等が比較的入手し易いが、「初代ビリケンさん」の写真は今まで見たことが無い。
●初代桂春団治の落語「八問答」には「今、ピリケンさんに信心してんねん」と出てくる。この録音は昭和初期のものなのだが、「八問答」には太陽が神戸辺りで泊まっているかも知れないので聞いてみる、という件??灯楴Z?;ш;??р;р;等がある。小拙はこの「ピリケンさん」は神戸のビリケンさんの可能性もあると見ている。初代に存外と神戸ネタが多い事については別途単独で研究に値するテーマである。
●大阪人は「ビスケット」を「ピスケット」と云ったり、「ビンタ」のことを「ピンタ」と云ったりする。大阪では当時からビリケンさんはピリケンさんとも呼ばれて居たのであろう。
●昭和54(1979)年、通天閣の三階を多目的に使うこととなった時にビリケンさんを復活させることとなった。商標元の田村駒社にあった「ビリケン」を参考に復元させたものが現在のものという。田村駒にある「ビリケン」とはいつのどんなものなのか。
●映画「哀愁」ではラストでロバート=テイラーが、ビリケン人形を握りしめるというシーンがあるようだ。小拙には阪妻の「王将」に出てくる初代通天閣が忘れられないが、あれが実写であるとすると貴重な映像資料であると思う。阪本順治の映画「ビリケン」が完成した年、「王将」の作者北条秀司が逝った。
●新世界のルナパークに居た初代ビリケンさんはどこかで現存していて、こそっとこの世間を笑っている様な気がする。