●山田亮さんは、カリスマフードコーディネーターの草分け的存在として、料理制作集団「キュール(CUEL)」をケータリング業界の寵児にさせた。

●1984年に上梓された『東京エスニック料理読本』(冬樹社)では、料理をキュールが担当し、それを長嶺輝明氏が撮った。当時この本を本屋で見つけた小拙は、その恰好良さに痺れ、躊躇無く購読した。

●その読本には、旅人や食に一家言ある人達のエッセイとキュールの創作料理、そして東京にある各国料理店のデータが載っていた。今から考えると、その直後に各国料理ブームが来るのであるが、この本はその一因を喚起した様に思う。

●山田亮さんは、その本の上梓直前まで、つまりキュール立ち上げまでは音楽家でもあり、北野武の「たけしバンド」のベーシストでもあった。小拙はその頃の山田さんとはまだ出会っていない。

●東京エスニック料理読本は料理を語り、料理を紹介しているのに、何故かものすごくファッショナブルでアーティスチックであった。当時よく買っていたカセットブックシリーズの『TRA(トラ)』にも「CUEL」の名が出ていた。小拙にとって大変気になる存在であった。

●その後一応社会人となり、2〜3年経った頃、東京で小さな記念会の様なイベントを担当する事となり、確か五反田あたりのガレリアというスペースを使うこととなった。

●ケータリングを頼む仕事が出来た。イベンターのKさんにキュールを使いたい旨を申し出たが、これが意外と難航した。そのときの冬樹社はすでに存在せず、中々コンタクトのきっかけが掴めなかった。小拙はほとんどあきらめかけていた。

●ごく最近まで知らなかったが、この『読本』の編集をしたアルシーヴ社というのは健在の様で、写植のモリサワが出すPR誌『たて組みヨコ組み』でその名を見た。

●Kさんから「見つけた」と聞いた時には大変嬉しかった。早速東京へ下り、山田さんに会った。眠そうな眼が印象的であったが、大変にソフトな人で、『読本』時代のトガリはあまり感じなかった。その席にCUELのハギワラトシコさんも居たのかも知れない。1987年の頃であったと思う。

●その後、比較的立て続けに「CUEL」に料理をプロデュースしてもらった。企画をし、食材を選び、メニューを作った。今から考えると、凄く贅沢な時間を共有させて戴いていた様に思う。

●その前後、小拙は東京でライターの保屋野初子さんと歌手のウヨンタナさんと出会っている。保屋野さんは当時、ウヨンタナさんの活動の窓口をされていた。デモテープを聞いて驚いた。本当に巧い。彼女は内モンゴル出身で、モンゴル語、中国語、そして日本語で歌うのだが、歌詞の意味が分からなくても泣けるのが不思議であった。小拙は「遠方の友」というモンゴルの歌が好きであった。

●今から考えるとやはり不思議なのだが、丁度その時分にCUELが「モンゴル展」か何かのレセプションでケータリングを担当することとなった。

●CUELは主題をイメージして様々にアレンジした料理を産み出す。その時もモンゴル料理そのものを提供する必要は無かった様だ。しかし、やはりモンゴル料理に関することも知っておきたい、ということで、小拙に照会があった。

●山田さんにウヨンタナさんを紹介した。そしてその後、二人とは会う機会が無かった。約半年後山田さんから電話を戴いた。モンゴル展がうまくいった、という事とウヨンタナさんと所帯を持つ、ということを聞き、驚いた。

●ウヨンタナさんはその後「ホルチン」(オーマガトキ)というファーストCDを出し、その中に「遠方の友」も入っていた。坂本龍一が作った、TBSの「NEWS23」のテーマ曲に聞こえてくるのは彼女の声である。

●ウヨンタナさんとボヤン=ヒシグ君を会わせてしまったのは小拙だ。ボヤン君は同じ内モンゴルの出で、荒川洋治氏のもとで現代詩を習っていた。日本語で書く文章にも味があって、日本語原稿のコピーの束をもらった。もの凄く面白い内容であった。これは日本人には絶対に書けない、もの凄い日本語である。ボヤン君を小拙に紹介した朝日新聞のTさんも、早くこれを世に出したいと考えていた。

●小拙は英治出版の原田英治さんに原稿を送り、ボヤン君にも引き合わせた。原田さんが独立して間もなくの時で、刊行点数が1〜2点しかなかった頃と思う。原田さんは出版に前向きだったが、出来るとしても時間がかかる様な気がした。原田さんを紹介して下さったのは山田さんに紹介戴いたDIDの金井真介氏である。

●その後暫く音信が無かったが、件の原稿が『懐情の原形―ナランへの置き手紙―』という本になった。個人出資者を募り、ボヤン君も印税を寄付するという形で実現した。その印税で、留学生による日本語論文賞「ボヤン賞」が創設された。現在も「留学生文学賞」として継続されている。ナランとは日本のことである。

●第一回ボヤン賞の発表会で、ボヤンさんがモンゴル語で作詞し、ウヨンタナさんが作曲した「ホレーレ」という曲が、無伴奏で歌われた。いつの間にそういう事になっていたのか、今から考えると物凄い速度で次々と物事が進行されていた。

●2001年の秋、ウヨンタナさんを取材する用事があって、東京でお会いした。山田さんもご一緒だった。その日の未明に身体が不調になり、救急車で運ばれた話を本人が笑いながら話した。とても元気そうだった。ウヨンタナさんの二枚目のアルバムの制作も順調に進んでいた。

●その二週間後、山田さんが血液の病気で入院したことを知った。病室に見舞うと元気そうであったが、薬の副作用か髪は一本もなく、ベッドはビニールで囲われていた。Macで楽しそうに仕事をしていた。その後見舞いの都度、病室でウヨンタナさんかハギワラトシコさんに会った。

●二枚目のアルバム「天の壁」(エイプリル)がリリースされたのは、2001年の暮れで、山田さんの誕生日であった。待っている、という意味の「ホレーレ」も入っていた。至極名曲だと思う。山田さんと面会したが、遠くの病室に居て、ガラス越しにインターホンで話した。

●2002年の6月16日に面会した時には、通常の病室に戻っておられたが、話の途中で彼の目から涙が流れていた。小拙はそれを無視して普通に話した。

●7月9日に面会した時にはウヨンタナさんが居られた。小拙が去る時に山田さんは「よっこらしょ」と云って、左手をビニールの隙間から差し出した。小拙は右手を差し出して握手した。ウヨンタナさんに車で武蔵小金井駅まで送って戴いた。

●7月19日に病院から電話を戴き、山田さんの亡くなられたことを聞いた。

●ウヨンタナさんには蓮君という二世が残され、上海での新しい生活が始まる。キュールは事務所もウエブサイトも一新され、ハギワラトシコさんの手腕でこれまで以上にアグレッシブに活躍している。

●小拙は今も、山田亮さんの居なくなった穴を埋め切れずに、ただただ彼の施した数々のホスピタリティ溢れる言動を思い出すだけである。


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まだいまだ p r o f i l e