○1980年に大学に入学し、めでたく一回生となった。一年生を一回生、二年生を二回生というのは大阪独特か。「一回生」と呼ばれるのが、晴れがましく感じられた。

○当時は経済、経営、社会の三学部しかなかったので、女子学生の数は2〜3%であった。田舎のバンカラ校なので、大学に隣接する男子寮からパジャマ姿のまま生協食堂でコープ定食を食べている学生がいた。その一画だけ健康的な病院の食堂のようであった。

○もちろん下駄にジーパン姿も居たし、ゴム草履にジャージ姿も居た。ソラ女子学生も寄らないハズである。私学の割に貧乏学生が多かったように思う。

○小拙自身も、ドタ靴に無名ジーパン、ヨネックスのポロシャツ姿に浴用タオルを首からぶら下げて、電車通学していた。それがカッコイイと思っていた。高校からやっていた軟式テニスの同好会に所属をした。

○その大学に付属している高校は結構な進学校で、普通はそのままスライドせず、もっと偏差値の高い大学に行っていたようだ。だからそのまま上がってきた野郎達は相当な遊び人度指向が高かった。

○大阪ミナミやアメリカ村などの情報にも詳しく、勉強以外は全て彼等から学んだ。彼等は総じて金持ちで、ファッションにうるさかった。スライド入学であるにもかかわらず、裏口入学の臭いが漂う相当胡乱な奴等であった。

○ヨネックスのポロシャツに、ベルト通しに「Gパン」と書いてあるようなジーパンでしかも元祖タオラーの小拙は、そんな彼等にファッションを教わった。

○アメリカ村にあった「デプト」という古着屋で緑色のギンガムチェックのシャツと「Hanes」のTシャツを買った。古着屋というものにはこれまで入ったことがなかった。 「Hanes」のことをヘインズと呼ぶ、とわかったのはずっと後で、最初はハーネスという名前だと思っていた。

○その遊び人は、エルパソという喫茶店で、ファッションの決め手は靴なので、そんな無名のドタ靴はやめろ、と云った。アディダスのカントリーという靴が良い、と云うことだった。

○軟式ではあってもテニスをやっていたので、ナイキ、アディダス、ヤマハ、タッキーニは知っていた。アディダスのスタンスミスという靴は、今でも名作だと思う。

○当然「Gパン」ではやってられない。ジーンズは「501」に尽きるということであった。そいつらはズボンのことをパンツと呼んでいて、それだけは真似できなかった。ズボンがパンツならパンツはサルマタか。

○ジーパンを買いに行ったのは梅田のジョイントという店であった。リーバイスのコーナーにその「501」はあった。驚いたのはチャック式ではなく、鉄のボタン式であった。

○店の兄ちゃんに聞くと同じ形でチャック式の「502」というジーパンがあるという。形が一緒ならばそれで良い。当時はまだ腰まわり28インチで間に合っていた。

○完成した小拙のトータルコーディネートを見た遊び人は、「501」ではなく「502」であることをなじった。生地と縫製が違う、ということであった。慣れればチャック式と変わらぬ速度で開け閉めもできるという。

○そんな彼等はDCブランドにも目がいっていて、ワイズやコムデギャルソンなどのバーゲンに走っていた。しかし、基本的にはスポーツの香りがするアメリカンカジュアルファッションが好きな奴らであった。

○そして彼等が取り入れていたのは「ヘビーデューティ」と呼ばれる分野のファッションであった。メンズクラブという雑誌などで、小林泰彦のトリコになった。当時全く読書などしていなかった小拙は、小林信彦を知らなかった。

○いろいろ調べると奥が深い。リーバイスのジーパンも良いが「Lee」にも中々のものがある、とかショットの革ジャンは最高である、とか、フィルソンのオイルコートは良い、とか。

○しかし、何をやっても垢抜けないものは、着るものを変えても駄目である。そこらあたりからようやく読書などに目覚めてゆくのであるが、紙幅が尽きた。


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