●中学三年までそろばん塾に通った。どういう定説か風習か知らないが、大抵は小学校卒業時にそろばん塾も卒業する。小拙の場合半分以上遊びに行っていたようなものだ。古川先生ごめんなさい。
●莫迦な小拙は中三まで習って準二級までしか取れなかった。商工会議所で開催されていた試験風景は今でも思い出せる。進級試験に受かると楕円形の小さな金属板に「四級」とか「三級」と書いたものを呉れた。後にそれは同形のシールにかわった。
●中三になっても小拙の算盤には「準二級」のシールしか張られていなかった。確か習字も八級(!)で挫折した小拙である。我慢がないというか勉強が足りんというか。
●暗算の練習というのがあって、先生が鼻声で数字を読み上げる。みんな半目になったり目を閉じたりして指を動かした。アレは頭の中でそろばんの玉を上げたり下げたりするもののようだが、小拙には全くできなかった。そろばんは出てくるが玉はびくとも動かない。
●小学生の女子で暗算の得意な子が居て、どんなに長い読み上げ算でも正確に答えていた。中三の莫迦は「あぁ、そうか」とか何とか言いながら茶を濁すのであった。しかし何故急にあんなに鼻声で読み上げるのであろうか。
●人の記憶というものは、映像と言葉で構成されているのであろうか。小拙の感覚で云えば、女子の方が男に比べて絵や映像で記憶することの能力に長けているように思う。アンタあの時くたびれたポロシャツ着てたね、などと20年以上前の話をされても困る。
●いっちゃ悪いが小拙のシャツは今でもくたぶれているのであって、そんなこと知ったこっちゃない。オンナとは恐ろしいもんである。
●小拙の頭には画像が入りにくいのか、それを単に物覚えが悪いというのかも知れない。クルマもカーナビ導入までは散々な目であった。何十回と通っても道を覚えていない。それはそれで一種の忘却能力が高いということにはならぬものか。
●かてて加えて無類の暑がりで、ほとんどメガネをかけなくなった。視力0.1ではあるが、運転時以外にはあまりかけなくなった。以前はテレビを見る時や外出する時はかけていたが、今はそれもしない。
●暑い、ということもあるが、はっきりと見たいものが無い、ということもあるのかも知れない。幸い老眼力はまだついていなくて、活字もデスプレイも難なく追える。活字やデスプレイが積極的に見たい、という訳ではないのである、が。
●音読派の小拙には速読が全くできないのであるが、あれは一種の画像処理みたいなものなのかも知れない。文章をブロックで「絵」として印象付ける。速く読む人を見ると無性に腹が立つのは不惑現象か。
●白川静先生によるまでもなく、表意文字としての漢字そのものの美、そして機能美というものがある。表意なので固まりで処理しやすいのかも知れない。英語などの表音文字の方が速読には向いていない気がする。しかし『速読』項が広辞苑に載っている事自体が迎合を感じる。誰が何に対して?
●数学的なものの考え方は、どういう脳力が養われるのであろうか。やはり数式や公式を画像で処理するのであろうか。3+3が6で、3×3は9になる。「+」が45度の斜角「×」となって「6」が「9」になる。
●九九はインド人の発明か、大変に便利なものである。世間は広く、英米などの九九は12×12まで覚えるらしい。九九じゃないじゃないか。
●小拙はこれまでに数学の面白さが分かったためしがないのであるが、だからといって中途半端に「経済学」学士の道を選ぶべきでもなかった。
●そんな中途半端な小拙にでも佐藤雅彦の『任意の点P』(美術出版社)は面白かった。SFC(慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス)の学生たちと制作した、3D作品集である。
●マダラ模様を凝視すると浮かび出るタイプのものではなく、少しズラした二点の絵をレンズを通してみると立体視できるステレオ写真タイプの作品が並ぶ。本にセットされた専用のレンズを通してみると、紙の上から線や面が三次元に立つ。本当に美しい錯覚であると思う。
●その中に二点の絵が線でつながっている「菌糸」という作品があって、考えてみればそれでも良いのであるが、小拙にとっては新しい発見であった。
●赤瀬川さんバリにレンズを通さず、裸眼で立体視に挑戦しているが、間際のところで成功できていない。もっと老眼力をつけないといけないのか、ロンパリの訓練に励む今日この頃である。