●「馬子にも衣裳」というが、着る物には馬子までもを違う何者かに変えてしまえる力がある、ということか。石津謙介氏が提唱したというTPO(time,place, occasion)に合わせて、衣裳を考えるのは社交上ある程度要ることなのかも知れない、が。不幸にもVANは潰れてしまったが、TPOという言葉も石津氏も生きている。しかし日本人は比較的そういう時のアレンジは下手である様に思う。

●抵抗文化のアメリカなどでは、例えば男でも仕事を終えての帰宅後、上着をとってカーディガンを羽織る。酒などの買い物にはヤッケを着、ブ−ツに履き替える。食事時には少し改まってシャツを着替え、食後酒かコーヒーの時にはまた先程のカーディガンを羽織ってソファにふんぞり返る。シャワーを浴びたらバスロ−ブを引きずって、悦に入ってブランデーか。ダイエットコーラを飲んで寝る時には、パジャマに着替えてベッドにもぐり込むといった具合だ。アメリカ人の神髄か。

●それに引き換え小拙などは、一張羅ファッションで、風呂に入って下着姿になればそのまま酒->寝る、となるだけだ。本当に洒脱な人は気に入った同じファッションを数組持っているというが、小拙の一張羅主義とは似て非なるもの。

●イタリア料理やフランス料理に代表される横メシ(洋食)の場合、アラカルト主義というか、その都度料理が出る。客は次の料理が出るまで我慢して待っている。それ式と比較すると、日本の懐石(会席)料理の場合、あらかじめその全容が開示されている場合が多い様に思う。

●着替え文化やサービス文化の違いは確かにある。社交というものに対する考え方が、根本的に違うのかも知れない。アラカルト文化と定食文化とか。

●小拙の場合、どちらにもほとんど縁はないが、着替えをしない民なので、食べるものもあれこれと少しずつ食べる式は気性に合わない。一点主義で好きなものだけを延々食べ続けていたい人だ。味噌汁なら五椀は欲しい。「アホの三杯汁」という言葉があるが、五杯までいくと尊敬される。

●競技女装のカリスマ「キャンディ・ミルキィ」というおっさんは、顔はおっさんのまま、フリフリのフリルがいっぱい付いたキャンディキャンディの恰好をして歩く。確かこれでも嫁も子供もいるのであるから大したものだ。しかしこれはあくまでも競技であるから、恥ずかしがっている場合ではないのかも知れない。

●日本人には裕福=重ね着、野卑=露出、という単純莫迦的な潜在意識があるように思う。夏に長袖を着ている寒ガリに優しく、冬に半袖を着ている暑ガリに冷淡である。本当に寒かったら長袖を着るだけなので放っておいて呉れ。全て自分を基準に考えるなよ。

●アメリカ人が着替えられるのには、湿度というものが大きく関係しているものと思う。京都・大阪を代表する日本内国熱帯地帯では、年間のうち相当期間が高温多湿期なので、ステテコ一丁になった後、その後それ以外のなにものかに着替えるなんて考えられない。

●小拙はこれまでに会ったことがない。京都・大阪で、真夏の夕暮れ以降にステテコ一丁姿から他のなにものかに着替えた人を。アメリカ西海岸などでは三十度以上の高温になっても低湿度だ。肌もサラサラしているので、ま、着替えも乙なこと、という風になるのではないか。サラサラしている割りには肌そのものはザラザラしているようにも見える。

●東大の藤森照信氏の指摘であるが、室内から湿度を取り除く「除湿」というのは意外と難しいようだ。今のエアコンの「ドライ」機能は弱い冷房と大差ない。高温多湿は当然不快であるが、低温多湿も不快であるという。日本家屋・建築の課題は除湿である、という。

●沖縄県名護市庁舎は、近年稀に見る名建築であると思う。風の道を作って、夏でも冷房が要らない様に出来ている。職員のアロハは少し趣味が悪い。同じアロハシャツでも粋なものはあるだろうに。和歌山県白浜町職員のアロハよりは少しは増しか。

●かつてあの花柳幻舟の「EAT THE KIMONO」という映画を見たことがある。ええ歳こいた花柳幻舟が、派手な振袖着物を着て舞を踊る踊る、踊る。あまりにも激しく踊るので映画のカメラの人も困って、最後は幻の舟を追うのを止めてしまった様にも思える映画。

●動いているものを撮る場合、無理に追いかけようとしてカメラを動かすと、一般相対性理論の教えの通り、相当見にくい。動いている相手には広角のレンズ玉などで固定式に撮る方が良いのではないか。余計なお世話、百も承知のカメラマン。

●とまれ、 花柳幻舟は何故振袖を着て踊るのか。 彼女の答えは 「EAT THE KIMONO」である。そう、彼女は着物を食べるというのである。江戸時代に元服するまでの女性に着せた振袖着物は、男尊女卑の象徴であるから。

●着物という合わせ式の衣装を帯で締めつけ、なおかつ大きく袖を意匠することによって、女性の動きを極端に制限させた衣装が振袖着物であるという。そうした衣装は江戸時代が生んだ悪しき習俗であって、彼女はそれを破壊しようと考えた。

●のであるから、花柳幻舟はそういう女性側から見たら「負け文化」の象徴的衣装である振袖着物をあえて着て、それを振袖を着た時には普通は絶対にやらない動きで破壊表現しようと考えたのではないか。

●広辞苑によると「食う」ということは相手を飲み込むということであり、強い相手を負かすことであるという。「EAT THE KIMONO」というタイトルは大変秀逸なお題であると思う。やはり花柳幻舟はタダ者ではない。

●現在、京都・宇治で療養中の鶴見和子氏には確か『きもの自在』という本があって、普段は和服で過ごしておられたと思う。永六輔が提唱する「天着連」(天皇に着物を着せよう連盟)は、天皇が日本の象徴であるとするのであれば、和服を着てもらってもいいのではないかというもの。一理あるように思う。

●以前、どこかで誰かが書いていたのだが、政治家も社長も背広にネクタイ姿ではなく、麦わら帽子をかぶった状態で話をしてみろ、と。麦わら帽子には一瞬にして建前会話を破壊する力がある、と。誰かとは麦わら帽を被らせたら日本一の農民顔・日比野克彦氏、か。

●馬子にも衣裳、ではあるが馬子に麦わら帽子を被せても大勢に影響はない様に思う。それにしても何故拙稿では花柳幻舟、永六輔に「氏」が付かないのであろうか。


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