●「活字離れ」という言葉は、 結構以前からあるような気がする。 広辞苑(第五版)にも【活字】項の中に載っている。そういえば1970年代から「三無主義」という言葉もあった。今は何無主義の時代、か。
●山本夏彦翁のものを読んでいると、今あるものの殆ど全ては「戦前」にもあった、と。それを逐一実例で示しながら「才媛」に教授したのが、『誰か「戦前」を知らないか』と『百年分を一時間で』(共に文春新書)であった。頗る面白い。
●また、人間の考える思考類型の全ては、2000年前に出尽くしている筈であって、今更新しいことなど何もない、と考えた方が良い、ということであった。人類の歴史から見れば、確かにそう言える。ヒトが猿人から分化したのが500万年前、原人の登場は150万年前である。
●活版印刷技術は、グーテンベルクの15世紀以降なので、活版活字の時代はこれまでに約500年続いたことになる。印刷そのものの歴史は、 4000年以上あるのかも知れない。
●山本翁は『完本 文語文』などで、だから「古典」を(は)読め、と繰り返し説く。現代では古典どころか、漫画を読ま(め)ない子供が居る時代である。字を読むのが面倒臭い、のか。
●一方でケータイという文化があって、今や猫も杓子も持っているのである。そして電話なのに文字が送れたり、写真が撮れたり音楽が聴けたりもする。電車内でも歩行中でも運転中でもどこでもいつでもメールを打ったり読んだりしている。まるで聖徳太子の笏の様に持って。
●そういう意味では、日本人の目は活字からは離れてしまったのかも知れないが、読んでいる文字の量はむしろ増えているのかも知れない。自分に宛てられた、あるいは不特定多数として配信されたメールの読み書きの量は凄いかも知れない。親指が攣る。
●なので、「活字離れ」ではあっても、ひょっとしたら文字の取扱量はむしろ目下増量中なのかも知れなかった。ジャーナリストの斎藤貴男氏はケータイは「現代人の使いこなせる代物ではない」とし、自分は「絶対に持たない」としている。(2003年10月26日・朝日新聞)確か筑紫哲也氏も。
●ケータイを持つと「公の世界を拒否して、私の世界の内部だけで生きようとするあまり」行動がサルに酷似する、と『ケータイを持ったサル』(中公新書)の著者・正高信男氏は指摘している。架空の聖徳太子に似てしまうのも何かの奇縁、か。
●少なくともケータイの文字は「活字」ではない。「活字離れ」の問題は、活字媒体で飯を食っている人々の嘆きなのかも知れない。しかし、もし活版印刷物を「活字」と定義するのであれば、新たに活字などほとんど出来していないのではないか。
●青空文庫でコンピュータの画面上で読む「文学」と、同じテキストを紙に印刷した時の「文学」は明らかに「文学度」が違う。明らかに違うのであるが、媒介が違うという以外に何がどう文学度に差異をもたらすのか。
●詩の世界では、『詩のボクシング 声の力』(楠かつのり・著、東京書籍・刊)のように新しく朗読による詩の可能性が実践されている。そうして聞くとやはり面白いのである。
●詩や散文に限らず、口をついた言葉と声が価値を持つ。コミュニケーションの新たな方法となれば面白い。
(2003年12月15日号掲載)