●小拙の親父(1929-1985)は、平均的な煙草飲みであった。家には缶のピースを買い置きし、当然のようにショートピースを持ち歩いた。煙草というものは両切りのピースのことであり、フィルター付きの煙草があるということを知ったのは、吹田万博の小四の頃からか。

●拙宅の前はバス通りの交差点で、信号を渡ると「京屋」という名のパン屋、「昭陽」という支那料理屋、コトブキの洋菓子を売っている店、そして駅前だったので、荷物や自転車の預かり屋が並んでいた。

●そのコトブキの洋菓子屋では、よくシューアイスを買った。あれはヒロタ製だったのかどうか。そしてその洋菓子屋では煙草も売っていて、買いに走らされていた。

●距離が近いということもあって、幼児の頃からその洋菓子屋でショートピースを買いに走っていた。煙草というものは二箱ずつ買うものだ、と信じていた。缶は買った記憶がない。そこでは扱っていなかったと思う。缶は梅田あたりで買っていたのだろうか。

●火を着けて呉れというので、トントンと葉を詰め、唇の真ん中で煙草を挟み、マッチを擦って火を着けて渡した。口の中に甘い香りが残った。親父の好んだ当時のアサヒビールとピース煙草は、どちらも家族全員が認め、どちらかというと好きであった。そういえばビールの栓もコンコンと良く抜いた。コップに注いで泡を貰った。

●中学に入ると、便所や校舎の隅で隠れて吸う奴が居た。どこからどう見ても不良としか形容の付かない後家ズボンに竜虎裏地の長ラン、リーゼント頭の奴らであった。今から考えると分かりやすくてはっきりしていて、良い制度化記号である。ガクランの下は普通の白シャツやら黒タートルのセーターであったが、ラメ入りの腹巻をチラつかせ、キャロルを聞く。

●中学生に火着け役はさせられない、と思ったのか、その頃から使い走りと火着け役を妹にさせていた。妹もそんなに抵抗なくやっていた様に思う。

●地元の府立高校に入学して、二年のクラス仲間が悪かった。学校帰りに電通高近くのうどん屋や門真駅近くの喫茶店で、煙草を吸っていた。何故か小拙もクラブの帰りに合流するようになっていた。自転車通学の弊害か。

●自分が吸う為に初めて買った煙草は「エコー」という銘柄で、フィルター付きの煙草が20本入りで70円であった。当時としても安い、と思った。黄色ぽいパッケージがモダンな感じがした。

●ピースの火着けとは違い、最初は吸い方が分からず、涙を流し大いに咽せながら吹かしていた。そんなこんなで、クワえ煙草で朝から晩までパチンコ屋に入り浸る大莫迦浪人生が誕生した。天王寺予備校の英語講師、別府善次郎先生の人情味溢れる名調子は今でも忘れられない。

●大学に入っても、癖は治らず、マイルドセブンを日に一箱吸っていた。マイルドセブンのことを我々は「マイセ」と呼んだ。大阪特区だけの三文字略語か。時々マルボロやラークなどの洋モクを買う奴が居て、「ブルジョアや」と冗談で崇められた。

●バークレーという所へ短期留学という名の一ヵ月旅行をしたのは、大学入学時からの積立が満期になったからだ。UCLAバークレー分校の寮に入るという。大学4年の8月の一ヵ月間を米国西海岸でぶらぶらと過ごした。

●こんなにこの地の空気が乾燥しているとは思わなかった。真夏の摂氏30度を超えているのに、全く不快ではない。華氏では何度になっていたのだろう。汗も適度にしか出ない。不思議なのは、雨が降っても全く湿度の高さを感じなかった点である。

●藤森照信氏によると、日本の家屋建築の最大の問題点は除湿である、という。エアコンの「ドライ」機能など、単なる気休めにしかならない。高温高湿も不快であるが、低温高湿も意外と不快である、という。

●そうした暑いけれども全く不快感のない夏は、何故かこの不健康な大莫迦者をも変えた。カートンで運んだマイルドセブンにほとんど手をつけることは無くなっていた。1983年の夏のことであった。これも乾燥のせいか、大学内でボーリングをしたら190点出た。

●すでにアメリカでは、各施設での分煙体制は整っていて、禁煙や嫌煙運動も社会に定着していた。20年後の今の日本は、当時のアメリカよりまだ遅れているように思う。煙草に対する税制の違い等のせいだろうか。

●帰国後、積極的に就職活動もせず、大莫迦はまだテニスの練習などをしていた。9月に入ってクラブを終えて、コート横の大きな喫茶店に入った。アイスコーヒーやらクリームソーダやら。珈琲と百数十円違いなので、何も飲まずに焼飯を食う奴、小瓶のビールを飲む奴などがいた。

●実は、それまでに禁煙を試していたが、中々の何ちゃってで、禁煙は何度も本当に三日坊主に終わっていた。

●その喫茶店にもマイルドセブンを持って入ったが、冷コー(アイスコーヒー)を飲んで、ポケットを見たら、最後の一本であった。そして10人以上仲間や後輩が居る中で「俺はこの一本で煙草は終わりにする」と云ってしまっていた。別にそんな気はなかったのであるが。

●その1983年9月5日月曜日の夕方から、今まで20年間全く口にしていない。莫迦莫迦しく人前で大声で宣言した手前、結局そのまま禁煙が成功してしまった。一時期吸っていたせいか、最初から吸っていなかった人よりも副流煙に弱い。しかもかなり弱い。

●小林信彦はその煙を吸うと発熱すると書いていたが、小拙も同じだ。発熱発汗し、動悸が乱れ、苦しい。日本の喫煙マナーはいつまでこうなのか。他人の健康などに興味はないが、どうして最低のマナーやルールがいつまでも守られないでいるのであろうか。

●落語にはキセルを使う話が良く出てくる。小拙の祖母も火鉢にキセルで煙草を飲んでいた。キューバのコロナという葉巻が旨いそうだ。「吸う」というよりも「飲む」という時間が楽しめる人生の時期は幸せなのかも知れない。

●とまれ、煙草の火着けでマッチの擦り方、火の匂いと怖さも覚えた。ビールの栓抜きでテコの原理とビールの醍醐味と香りを覚えた。ひとつの人間教育というものなのかも知れない。

(2003年12月29日号掲載)


▲page top

turn back to home | 電藝って? | サイトマップ | ビビエス

まだいまだ p r o f i l e