●わたしは、わたしが好きだ。間違っているかもしれないが、わたしはそうだ。わたしはわたしを好きな人が好きだ。間違っているかもしれないが、わたしはそうだ。

●交通や対話の不足、と相互の自意識の強さ、などから誤解や対立が生じる。当然わたしの身の上にもそういうことはある。たぶん誰にでもある。自分自身の中だけでも白黒つかないこともある、し。

●悪い言葉づかいや悪い性格や癖は、なかなか直すことは難しい。難しいが、人間として生活を続ける限り、少なくとも他人に嫌悪感や威圧感を与えない努力は最低限必要な気がする。

●落語は「サゲ・弁舌・仕形」である、と浮世絵師の石川流宣が『正直咄大鑑』(元禄七年)に書いている。対話や会話ということの中にも、ある程度の落ち(サゲ)的なものは必要だろうし、滑らかな話と身振り手振りで演出することも要ると思う。

●落語とは対局的に、話しているだけで相手を怒らせたり、不快感を抱かせる人もいるが、そんな人でも家の中でそんなことはしていない。二六時中そんなことをしても疲れるだけだし、声の大きい人が強い社会は嘘だ。

●運動競技の場合、本番(試合)では自信を持って、或いは自分が一番強いという考えで望む。その為に練習をするが、練習時にはその逆でする。しかし運動競技には一定のルールというものがあり、それを破れば反則である。民事の争い事にはルールはあるのか。

●双方の意見対立があって、民事裁判を起こした場合、争点が違えば一方が不利になる。最後は賠償や保障、和解などの多寡で決められるが、結果的に双方に不毛である。

●それ以前に、意見は対立するけれども人間として尊敬し合える人間関係ということもある。むしろどんな場合でも意見が合うことの方が少ない。意見も対立し、会話も成立せず、尊敬も存在しなければ、本来的にはむしろ互いに好都合ではあるが、地域や環境が近ければ逃れられない。

●勝つ自信があっても、司法に訴えて呉れということは危険過ぎる。どんな事象にも様々な視点と論点が成立する可能性があるからだ。自信があればあるほど不毛な結末を産んでしまうのかも知れない。

●もしわたしのことを特定しようと思えばできる表現で、ウエブサイト上に誹謗中傷罵詈雑言を並べられても、わたしは何も反論しない。そんな人に先導されてわざわざ出掛けてゆきたくない。本当にわたしに非があった、としても。

●そしてもしわたしのことを特定しようと思えばできる表現でウエブサイト上に誹謗中傷罵詈雑言を並べられても、そんなつまらないものは最大一日50人以上は見ないし、便所の落書き以上でも以下でもない。

●もしそんなヒマとカネとパワーと怒りと自己愛があるのであれば、便所の落書きではなく、わたしに直接苦言を呈すれば良い。もし当事者が居るとすればわたし、とあなた、だ。

●わたしはわたしに対して優しくありたい。そしてわたしに優しく接する人に思いやりの心を持って接したい。わたしは人間の存在理由は、自分を含めた人間へのやさしさとおもいやりの中にに凝縮されているようにおもう。

●わたしは、わたしが好きだ。わたし自身間違った人間なのかもしれないが、それでもわたしはわたしだ。わたしはそんなわたしを好きな人が好きだ。その人も間違った人なのかもしれないが、わたしはその人を愛す。これ以上の幸福はない。

(2004年1月19日号掲載)


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