●昭和52(1977)年に小佐田定雄が落語『幽霊の辻(ゆうれんのつじ)』を書いたのは、彼が25歳の時であった。桂枝雀が創作した『戻り井戸』という噺を聞いてかなり刺激を受けた。『戻り井戸』の持つ、時代や場所の設定が特定されない標準的な笑い、に影響される。
●『幽霊の辻』は恐怖譚である。20分弱の話の中に巧く普遍の要素が入り込み、既に古典落語の風格さえある。桂枝雀に提供し、彼のスタンダードな持ちネタになった。マクラで使うタクシーのネタには、心理学の専門家に聞いた話まで含まれる。
●枝雀は、昭和47(1972)に躁鬱病になった時点で、専門の医者に通うと同時に心理学者のカウンセリングを受けていたのかも知れない。
●『幽霊の辻』ではマクラから噺の終わりまで噺家は一度も笑わない。枝雀はこの頃既に爆笑型の落語を確立させていたのであるが、小佐田との出会いで新しい道を見つけたのかも知れない。
●不思議なのは、永瀧五郎が書いた落語「除夜の雪」を枝雀が演目に入れなかった点である。住職の息子として育った永瀧の、珍しく冬の怪談噺で、巧く出来ている。
●人間は困っている他人を傍観するのも好きだが、怖がっている他人を見るのも好きな様だ。『幽霊の辻』では演者が怖がれば怖がる程に観客は手をたたいて笑うのであった。枝雀自身が「自分もこんな人間で、見たくない程怖いものを見てしまう」という噺にも。そうした笑いは、小佐田が考えていた以上の効果であったのかも知れない。
●小佐田定雄は35歳で脱サラし、それより以降専業の落語作家となった。これまでに約 200作品があり、日々どこかで口演されている。やはり時代や場所の設定が特定されないスタンダードな笑いを含む作品が多い。
●小佐田の二番弟子のくまざわあかねが、2000年に国立演芸場主催の「落語脚本コンクール」で最優秀賞を獲った。彼女の作品を発表する場を設定するために「ごかいらく落語の会」という新作落語の会を開始した。「ごかいらく」とは「落語会」を分解したもの、という。
●「ごかいらく落語の会」は二年間続き、去年の末に終了した。2004年2月23日にはその集大成の「ごかいらくまつり」という会を開く。関西学院大学出身の小佐田は、大学の後輩にもあたる二番弟子のくまざわあかねと私生活でも一緒になる、という。縁は不思議だ。
●小拙は昭和57年(1982)年に大学で学園祭実行委員の会計をやっていた。 「2-101」教室という大教室で、土曜の晩にやる「オールナイトフェスティバル」という徹夜のコンサートが恒例の呼びものであった。
●山岸潤史や石田長生、ゴンザレス三上とチチ松村、大上瑠璃子、有山淳司、上田正樹、鈴木慶一、憂歌団、爆風スランプたちが入れ代わりに朝までギグをした。客も不良で、みんな酒を飲みながら立って聴いた。現在は大学も移転し、そんな野蛮な行事は行われていない。
●会計係の小拙は、ディパックに数百万円の札束を背負い、終演後のミュージシャンやマネージャーにキャッシュでギャラを払った。
●明けて日曜日の夕方から「桂枝雀独演会」を打つのも恒例であった。朝まで大騒ぎをするので、近所の住民へのサービス的な意味合いが強い催しであった。そうした都合で、オールナイトコンサートと枝雀独演会は毎年セットで企画されていた。
●小拙が担当した年は枝雀、朝丸(現ざこば)、そして九雀の三名で確か四席行われた。10時間前まで想像を絶する乱痴気騒ぎが行われていた同じ「2-101」教室で、古典落語が演じられた。今から考えると、スクール形式でノートをとられる姿勢で聞かれるのは、演者も辛かったことと思う。その時の小拙には朝丸の巧さが特に光って見えた。
●確か演者三名だけでしかも南海電車で来られた、と思う。枝雀さんが九雀さんに学生が焼いているたこ焼きを買いに行かせた。実行委の学生がお茶をいれた。枝雀さんは小拙と机を挟んでそのたこ焼きを一気に全部食べ、「こういうものはシャレで必ず食べておかなアカンねん」と言った。
●小拙の手元には当時の「りぼん」という会社のシーナ&ロケッツ出演料の領収書と、桂米朝事務所の領収書が何故か今でも残っている。そういえば鮎川誠と隣同士の小便器で用を足した。
●さて、小拙の創作落語台本『鍋奉行』であるが、去る2月7日に三代目林家花丸によって初口演された。今後更に中身を見直して上方落語の末席を汚したい。
(2004年2月16日号掲載)