【食堂】
食堂は朝から営業していて、始業前にパンを買ったり食べたりしていた。休憩時にパンを食べたこともある。昼も食べていたが、定時制の生徒のためか、我々がクラブ(テニス部)を終えても営業をしていたので、放課後もよく利用した。
卵丼、カツ丼、麺類などが定番であった。食堂のカツ丼は卵でとじられていなかったのであるが、おばちゃんに頼めば気安く卵でとじてくれた。帰宅するとすぐに夕食なのだが、クラブが終われば必ず食堂で何か食べていた。良きコミュニケーションの空間であった。
我々の間では、カレー用のスプーンで丼を食べるのが普通になっていた。早食いの競争などもよくやった。私もそうであったが、運動部の連中は、卵丼であれば30秒で完食し、牛乳1本5秒以内で飲んだ。朝も昼も放課後も、とにかく良く利用させていただいた。
食堂の裏にリヤカーが置いてあって、ドラムやアンプなど、同級生でやっていた音楽バンド「かつをぶし」の楽器搬送時によく拝借していた。このリヤカーが無かったら、文化祭での放送部主催「サテライトスタジオ」のバンド大会で優勝していなかったと思う。
【テニス部の思い出】
私は中学時に美術部だったので、高校では何か運動をと考えていた。入学直後にテニス部の練習を見学して入部した。
私の所属していた庭球部は男子部と女子部が2面あったコートをそれぞれ1面ずつ使用して練習をしていた。放課後は連日コートへ出、大会へ向けての練習などを行った。
雨天時には、校舎内で筋力トレーニングや、校舎内を走って身体を鍛えた。顧問の山下為平先生、木村良先生も普段は生徒の自主性を重んじて下さっていたが、時折は練習にも参加して下さった。
野球部のバッティング練習時には、テニスコートにまで飛球が届くことがあり、外野手が「上!上!」と言った次の瞬間に「どすっ」と硬球が落ちてきた。
大阪府の校区別の地方大会(予選)は春と秋に行われていて、我々は寝屋川高校まで行って対戦をした。ここで準々決勝に残ると、大阪府の中央大会に出場できる。私は当時前衛を担当したが、一度だけ準々決勝を決めるところまで勝ち進んだことがあった。3年になって年が明けてもクラブに参加していたが、私は一度も中央大会に行くことができなかった。
しかし私自身は、大学に進学した後も軟式テニスの同好会に所属するほど、このスポーツに魅了されていた。
(大阪府立守口高等学校は2004年3月で閉校し、芦間高等学校に統合)
『大阪府立守口高等学校八十年史』
(2003年10月31日・刊)より
1979年卒
2004年10月4日号掲載