●思えば昨年は、花粉がほとんどなく、気分良く過ごせた。7月になっても梅雨にならず、結局空梅雨で終わった。異常に暑い日が続き、小拙は12月中旬まで半袖であった。
●大阪・御堂筋の銀杏も、12月中旬を過ぎても色付かなかった。京都では初もうでと紅葉狩が同時にできるぞ、と噂された。
●大晦日の朝に大雪が降った。大阪でも珍しい位に降雪があって、眺めていては飽きなかったが、異常気象の年の最後に相応しい晦日だったのかもしれない。
●2005年になった。琵琶湖東の長浜で正月三日に新聞を読んでいたら神戸の池田さんという人がスリランカで津波に遭って亡くなった、とあった。奥さんが現地まで行って確認したそうだ。
●小拙が神戸で知っている池田さんというのは、池田敏明さんであったが、新聞を更に読んでゆくと、果たしてその池田さんであった。五日に葬儀へ行った。神戸市の渡邊さんや、池田さんと一緒に「P-MODAN 神戸」をやっておられる乙野さん達がお手伝いをされておられた。
●池田さんとは9月にお会いしている。去年の手帳に書いていた。結局それが最後になった。
●池田さんは、神戸マルチメディア・インターネット協議会の幹事をされていて、自身の会社「テフツー」を回してゆきながら、熱心に様々な発信事業をお手伝いされていた。
●7月の池田さんのメールには『あの震災時、東灘で「夢途中」で消え去った子供たちを見送った「想い」から始めました「P-MODAN 神戸」ですので、来年の事業で「子供たちの夢発信」企画が出来れば幸せです。』とあった。
●最後にお会いしたときは、神戸デジタルラボの永吉一郎さんと一緒に会いに来られた。日焼けした顔から小さめの目を大きく見開いて、熱心に神戸の未来をお話された。丁寧な方で、その日の内に『これから何卒よろしくお願い申し上げます。』というメールが入っていた。
●件の新聞記事で知ったのだが、池田さんは脱サラして神戸で「テフツー」という会社を興した、となっていた。蝶々を「てふてふ」というので、蝶のように美しくはばたきたいという願いを込めて「テフツー」という社名にされたそうだ。
●その後神戸ファッション美術館のHさんとも、映像作家の中森健さんとも、池田さんの話をした。
●阪神・淡路大震災から10年経った。生憎1月17日は朝から寒い雨が降っていた。地震の発生した午前5時46分には、追悼の式典で黙祷などが行われた。
●朝方と午後、そして夕方にも六甲山に向けて大きな虹が出た。神さんが居て、我々に何かを示唆しているようにも見えたし、犠牲者を一時降臨させる橋のようにも感じた。
●小拙は1月17日、午後の5時46分に、JR新長田駅前で1分間の黙祷をした。地元の「FMわぃわぃ」というラジオ局や様々な団体が恊働して追悼のイベントを行った。
●とまれ、阪神・淡路大震災で犠牲になった6433人は、もう戻らない。淡路島では先の台風23号の被害も新たに出、復興中だという。そういう情報がほとんどニュースにならないのは何故なんだろうか。
●阪神・淡路大震災は、都会型では未曾有の大きな被害が出た。我々はこのことを風化させずに、様々な教訓と新しい防災への取り組みにつなげる努力を惜しんではいけない。
2004年12月6日号掲載