7月某日

 毎年、祇園祭のシーズンになると、京都文化博物館の映像ホールで故 中村錦之助主演の『祇園祭』が上映される。『祇園祭』は一般の映画館や映像ソフト等で、好きな時に自由に鑑賞できない摩訶不思議な一本だ。

 特に関西地区以外で公開される可能性は皆無であり、DVD(ビデオ)化の可能性もまずない。何故か? それはこの作品の上映権を京都市が持っているという非常に特殊な事情にある。

 ただ、いかなる理由であれ製作された作品が、万人の目に触れる機会を失っているというのは、作品にとって実に不幸な状況であるといって良い。ましてこの作品は埋もれさせておくには何とも惜しい内容だけに痛恨の思いがある。錦之助自身、プライヴェートなことも含め大変な苦労の末に完成させた作品だけに、草葉の陰で悔しがっているに違いない。

 例えば東宝『獣人雪男』『ノストラダムスの大預言』 東映『江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』 新東宝『九十九本目の生娘』 ATG/プレイガイドジャーナル社『ガキ帝国〜あくたれ戦争』 といった作品は、くさいものには蓋的に安易な表現規制が行われる昨今、なかなか見る機会に恵まれないのはまだ分かる。

『祇園祭』に関しては、一般的に想起されるような表現上の問題ではなく、製作の過程における様々な事情が、通常の公開を難しくしている点が興味深いのである。本作は最終的に、京都府政百年記念事業として京都府の協力と京都市民のカンパを得て、日本映画復興協会(代表は中村錦之助)の名の下、製作が開始された。しかし、構想・企画段階からのスタッフの降板、監督の交代、錦之助自身の離婚や東映との労働争議、政治的妨害、関連団体からの圧迫、さらには経済的な曲折と、艱難辛苦の末、完成まで実に7年を経た労作である。

 作品内では、祇園祭の復興が様々な妨害によって迷走する様が、これでもか とばかりに描かれているが、ドラマさながら作品自体の製作過程もまた困難を極めた。正に数奇な運命に翻弄された作品と評さざるをえない。ドラマの中の登場人物と製作者の味わった苦しみが実に奇妙な符号を見せるのである。

 商業主義に流され、タダのバカ騒ぎへと俗悪化していく祇園祭を目の当たりにする度、本作品中で錦之助が演じた“新吉”の情熱を思うと、彼は祇園祭をこんなものにするために復興しようと考えたのではないだろうし、また錦之助が作品に主演した意図も絶対違うだろうという強い思いにとらわれる。新吉の心意気と錦之助の役者魂がシンクロして、筆者など遠い思いに駆られてしまうのだ。


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[猟カツ日記]
 数奇な運命に操られた
『祇園祭』

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今週の推薦カツドウ写真
(皆さん来年は是非 京都に!)
『祇園祭』


製作=日本映画復興協会 配給=松竹
1968.11.23 11巻 4,601m 168分

●中村錦之助が自慢の太刀捌きを捨て、京都・染物職人の町衆 新吉という役柄の中、役者としての高いポテンシャルを立証した金字塔的作品である。

●アクションありロマンスあり、豪華な配役陣にも恵まれた超大作と言って良い内容だが、その本質は実に政治的であり、さまざまな妨害にさらされたということもうなずける。士農工商といった身分制度は徳川幕府300年支配の礎となったが、すでに足利幕府崩壊のこの時期、明らかに差別意識に基づいた身分制度があり、それがドラマを構成する上で重要なポイントになっている。

●ここでの錦之助はアイドル時代の貴公子然としたチャンバラ スターではない。役柄が町衆・染物職人ということもあって、むしろ辛気臭いくらいなのだ。“サムライはただの人殺しである”と看破した彼はこの後、いわゆる勧善懲悪の単なるチャンバラ映画には出演しなくなっていく。

●一箇所だけ、あやめ(岩下志麻)と新吉がお互いに相思相愛であることを認め合った後、河原を挟んで見つめあい、思わず橋まで駆け出してしまうシーンがあり、ここだけはいつものアイドルらしい溌剌とした表情を見せる。

●馬借の熊佐(三船敏郎)との対決は前半の重要なエピソードだが、ここでも弓や槍を操って勇ましく渡り合うのではなく、馬上の熊佐が突き出した槍をつかんで、引きずり回されながらもそれを決して離さず、ついには熊佐に音を上げさせるといった闘い振りで、颯爽としたシーンを見なれている我々にすれば、何とも物足りないし、何ともカッコ悪い。しかし、このカッコ悪い錦之助こそが実は最高にカッコ良いのだ。

●映画での岩下志麻(この時なんと25歳!)は、ほとんど初めて見たのだが、初登場のシーンからもはや、もののけ的美しさ。鼻が高く杏仁型の大きな瞳は、日本人離れした妖艶さである。美空ひばりも含めて中村錦之助と共演した女優の中では、ダントツの美しさだと思う。

 三船敏郎と志村喬がまったくもって『七人の侍』であるのはご愛嬌だが、こうした東宝系の大物俳優と純然たる東映系俳優の錦之助の激突というのもなんともスリリングで良い。ちなみに岩下志麻は松竹系の大物女優ということになる。

●実際この作品は映画会社主導で作られたものではなく、最終的な製作を日本映画復興協会が行った関係で映画会社の枠にとらわれず、東映 東宝 松竹のトップ、それにフリーの大物が集結している。これは今日、流行の製作委員会的な流れから生まれた作品ならではであり、苦し紛れの製作ではあったが、思わぬ副産物となった。映画会社の製作能力が著しく低下した昨今、こうした製作の方法の方が一般的になったというのも何とも皮肉なことである。

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