コーデックス(合同食品規格委員会)はカドミウムの含有量が0.2ppm 以上の米は食用を禁じるよう提案をしている。しかし、この基準値を超える汚染米は、実は日本全国、津々浦々生産されていない場所はないといっていい。和歌山や高知、鹿児島ではゼロとされているが、それは単にデータとしての母数が少ないだけで、実際とは異なると考えたほうが良さそうだ。逆に米所といわれる北陸地方はほとんど全域アウトで、これは逆にデータが出揃っているからこそだろう。我々が毎日、食べている米のほとんどが汚染米である以上、コシヒカリだササニシキだヒトメボレだと銘柄にこだわったり、米泥棒の話題で暢気に盛り上がっている場合ではない。
'70年7月18日、東京都杉並区、立正高校の校庭で女生徒がバタバタ倒れたというニュースこそ、光化学スモッグの出現を最初に伝えたものであった。筆者はこのニュースのことは実によく覚えている。また、水俣病やイタイイタイ病といった当時まだ原因が不明で、奇病と言われた病気に対する恐怖も、小学校の社会の時間に教わって相当、強烈に記憶している。水俣病のために、もの凄いスピードで飛び跳ねながら狂い死んでいく猫の映像に震え上がったのが我々の世代だ。あの映像は本当にトラウマ的に怖かった。
こうした正体不明の恐怖こそ実は、'54年の初代ゴジラの持っていた核や理不尽な破壊に対する恐怖と同じ種類のものである。第11作目の“ゴジラ”は、東宝チャンピオン祭りの新作として、もはや完全に子供映画というくくりの中で公開されていたにもかかわらず、ゴジラの精神性において見事に原点回帰を果たしている。
ヘドラの持つ正体不明の不気味さは、その正体が生物ではなく宇宙から飛来した隕石に含まれる地球外鉱物であり、その鉱物の持つ性質がヘドロを触媒として活性化され、あたかも生物のような形態や動きをするという設定の見事さにある。
ヘドラとはまさに公害そのもののメタファーなのだ。集まって巨大化し、汚水を排泄しながら海を泳ぎ、硫酸を降らせながら空を飛び、オワイを撒き散らしながら陸を這い回るその4段変化はそのまま、光化学スモッグ、酸性雨、六価クロム、二酸化炭素の増加、地球温暖化といった様々な状況に重なる。しかも、生き物ではないから、公害という人間のエゴがなくならない限り、何度でも再生するという徹底ぶりである。
'71年当時の風俗を反映して、主題歌を唄う麻里圭子のボディ スーツにはサイケデリックなペイントが施され、いたずらに危機感をあおる彼女のアナーキーなヴォーカルが三回も披露される。この歌詞の内容だけでも恐るべき素晴らしさである。
演出も非常に残酷な面が強調され、ヘドラの吐き出すヘドロを浴びたゴジラは顔面が焼け爛れ、片腕は骨がはみ出してしまう。逆襲に転じたゴジラは、ヘドラの胴体部分を両手でブチ抜き、目玉様の二つの球体を取り出す。これまた、従来のお子様ランチでは決してありえない演出といえよう。
ヘドラの活動の源であるヘドロを乾燥させるという対策で、ヘドラは元の泥の塊に戻るが、いつ復活するかわからないぞ! という警告を込めてドラマは終わる。
この『ゴジラ対ヘドラ』は、'70年代初頭の時代背景が生んだ鬼っ子とも言える実にモニュメンタルな金字塔であり、ゴジラ シリーズとしては異色の一本に仕上がった。さすがにイギリスのカルト雑誌『ビザール』で、オールタイム異常映画ベスト10に堂々ランキングされた国際的カルト映画だけのことはある。
唄:麻里圭子 作詩:坂野義光
作曲:真鍋理一郎 編曲:高田弘志