書店の音楽コーナーで、ピンクフロイドの特集雑誌が何冊か上梓されていた。なんで今更、ピンクフロイドなんだ!? と思っていたら、あのシド・バレットが亡くなっていたのだった。 '06年の七夕に糖尿病の合併症で亡くなったという。享年60歳。
とはいえ、シド・バレットという名前に特別な感慨を持って接するリスナーが昨今どの程度いるのか? について筆者は、はなはだ心もとない。シドが最前線から姿を消したのは'70年代初頭に発表した2枚のソロアルバムの時だから、実に35年前ということになる。四半世紀と言えば、リスナーの世代交代には十分な年月だ。
ピンクフロイドは '67年の夏、メンバーの姿が幾重にも連なって乱反射するサイケデリックなジャケットに包まれた『夜明けの口笛吹き』(『The Piper At The Gates Of Dawn』)でアルバムデビューした。この夏はジェファーソンエアプレーンの『シュールリアリスティック ピロー』 ドアーズの『ハートに灯をつけて』 ビートルズの『Sgt.ペッパーズ ロンリーハーツ クラブバンド』などが発表され、後年マジックサマーと呼ばれることになる画期的な年だった。
ピンクフロイドはピンク・アンダーソンとフロイド・カウンシルという二人のレアなブルーズマンの名前に因んでシドが命名したもので、後付けで訳知り顔に語られる心理学者のフロイトとは無関係である。初期にはピンクフロイド ブルーズバンドと名乗っていたこともあり、後年のプログレッシヴロックの雄としての面影はまだない。
当時のバンドテイストは全て、シド・バレット個人のパーソナリティであり、初期のピンクフロイドは良くも悪くも、シドとその他大勢でしかなかった。ロジャー・ウォーターズは自虐的に“シド以外は誰でも良かった”と仲間由紀恵 的(笑)発言をしているが、実際、アルバム収録曲の11曲中8曲がシド一人の作品であり、さらにシドはギタリストであり、ヴォーカリストでもあった。シドの代わりにギタリストとして遅れてバンドに参加したデイヴ・ギルモアにとって、まるでシドが弾いているみたいだ と評価されることは最高の褒め言葉だったらしい。
セカンドシングルの「シー エミリー プレイ」(最初の邦題は「エミリーはプレイガール」(爆)「See Emily Play」)は、伸び縮みし、アップダウンする奇妙なメロディラインに、ちょっとしたユーモア、サウンドコラージュを施したサイケデリックロックを代表する作品で、筆者などこれとファーストアルバムの一曲目「天の支配」(「Astronomy Domine」)の2曲こそ最もピンクフロイドらしいと思っているくらいだ。
ファーストアルバムの最初の邦題が『サイケデリックの新鋭』だったことからも分かるように、当時、アートロック、ニューロック、プログレッシヴロックの境界線は極めて曖昧で、シドの持っていたかなりいびつなポップ感覚は、混沌とした’60年代後半のフィールドの中で水を得た魚の様に自由自在に泳ぎ回っていたのである。しかしそれは、計算されたものではなくまさに結果オーライであり、この繊細な若者が時代の希求したヒーロー像に応えていくにはやはり荷が重すぎたのだ。
アルバム発表後のツアーから来るストレスから、シドは神経症を患い、ドラッグ・LSDに救いを求めてしまった。 結果として、まともな音楽活動が出来なくなったのである。シドを語る時、多くはこの辺りのいきさつだけがロック的惹句としてやたら喧伝され、シド自身の音楽性について深く語られたことは、ついぞなかったような気もする。
あのデヴィッド・ボウイが “僕が唯一プロデュースしたいアーティスト” “シドは僕のアイドル” といった相変らずの無責任発言を繰り返す中、その存在はセミリタイア状態の中で、嫌が上にも伝説化されてゆく。
ピンクフロイドの歴史自体、シド・バレットを対象化し、その巨大な影を払拭していく過程とも言える。'73年にリリースされ、ビルボードTOP200に15年間連続チャートインというギネスブック公認記録を誇る『狂気』や『炎−あなたがここにいてほしい』('75年リリース。録音中のスタジオに、シド自身がふらりと現れたとも言われている)は明らかにシドをテーマに据えている。この後、作品のテーマが社会批評へと向かうにつれ、ピンクフロイドはセミ解散状態となり、ロジャー・ウォーターズのユニットとしての意味合いを深めていく。
'79年、奇跡的に採られたシドのインタヴューはしかし、悲惨だった。 日曜大工大好きオヤジ的な坊主頭のシドのヴィジュアルは、それだけでも十分衝撃的であったが、それ以上にインパクトがあったのは、その内容だった。
“お母さんが待っているから、早くお母さんの所に戻らないと…”と幼児退行とも思われる無意味な言葉を反芻するばかりで会話が全く成立しておらず、シドがもはや向う側の人であることを理解させるに十分だったのだ。
'70年1月リリースの最初のソロアルバム『帽子が笑う… 不気味に』(最初の邦題は『幽玄の世界』 後にセカンドソロアルバムとカップリングされた二枚組『何人をも近づけぬ男』では『気狂い帽子が笑っている』と直訳されている 『The Mad Caps Laughs』)は、ロジャー・ウォーターズ、デイヴ・ギルモア、マルコム・ジョーンズのプロデュース、ソフトマシーンのメンバーも参加して制作された。シドの作り出す変則的(いびつ)なメロディに演奏をつけるには、やはりジャズ的スキルに秀でたメンバーでないと困難であったことは容易に想像できる。ジャケットデザインはヒプノシスで、このアートワークもシドの音楽世界を見事に表現している。
筆者のフェイヴァリット ドラマーの一人 ロバート・ワイアットのスティックさばきが冴えわたる2曲目「No Good Trying」は必聴だが、このアルバムのポイントは実は後半の弾き語りパートにある。
このアルバム、制作上最大の問題は、シドが演奏できる状態をキープすることだったと言われている。シドの状態はそれ程、悪かったが、そのバッドテイストが無修正でそのまま記録されているのだ。
ここで延々と排泄されるシドの弾き語りは、まず、まともな感覚では聴いていられないくらい調子が外れ、リスナーの神経を逆なでするもので、相当ヤバイ雰囲気が充満している。ただ、この定型を外しまくった野放図なスタイルこそがブルーズと言えないこともなく、延々とハズしまくりながらも、このアルバム全体には不思議な静寧感が漂っており、そんなところにもこの稀代のアーティストの凄味を感じる。
セカンドソロアルバム『その名はバレット』(『Barett』 '70年11月)は、まとまりのあるアルバムになっている分、かえって面白みに欠けるきらいがあり、筆者にとっては1枚目こそがシド・バレットだ。
ピンクフロイドの商業的大成功は、リスナーにとってもアーティストにとってもプログレッシヴロックとはこういうものであるという一つの固定的なイメージを作ってしまったという点で、その功罪は大きい。そもそも固定的なイメージそのものがプログレッシヴ(進歩的あるいは先進的または前衛)という言葉、本来の意味とはかけ離れたものであり、名称の是非は別にしてもそれを最も嫌うのがプログレッシヴロックであったはずなのだ。
むしろこうした評価が確定していなかったシド在籍時のファーストとセカンド『神秘』(『A Saucerful of Secrets』シドの作品は最後の「ジャグバンド ブルースJagband Blues」のみではあるが)の方が、未整理なベクトルが全方向に放射されている分、よほどプログレッシヴだったと思う。
おそらくこのことについて誰よりも自覚的なのは、他ならぬピンクフロイド自身ではないだろうか。'01年に発表されたベスト盤『エコーズ − 啓示』 (『Echoes - The Best Of Pink Floyd』)に収められた楽曲リストを検討すれば、それは明らかである。
ピンクフロイドのメンバー4人が選曲に携わったという点で、“初”のベスト盤と言ってもいい本作は、キャリア30年、全15枚のオリジナルアルバム及び6枚のシングルから26曲が厳選されているが、シドと一緒に過ごした2年間から5曲も選ばれている。また曲順はデビューアルバム『夜明けの口笛吹き』の1曲目「天の支配」に始まり、最後の曲「バイク」で終わる。しかもジェイムズ・ガズリーによって新たに編集し直された各楽曲は、すべて曲間が繋がれており、曲順へのこだわりも尋常ではない。彼らにとっても、シドの在籍したピンクフロイドは特別な存在なのだろう。
シドの死後、彼の実姉がケンブリッジでのシドの生活について、サンデータイムズのインタヴューに答えた。シドの精神疾患に関する記述はマスコミによって過度に強調されていることを示唆した上で、美術史に関する研究書の執筆に没頭していたこと、地元住民と大変友好的な関係を築いていたこと、さらに看護師の立場からシドには幼少時からアスペルガー症候群の兆候があったとし、五感が未分化である共感覚の持ち主であったことを付け加えている。
サイケデリックとはドラッグ・LSD によって得られる共感覚を対象化した芸術表現であったことを考えあわせると、シドはまさにサイケデリックの申し子そのものであったと言えよう。
●帰りの電車で拾ったスポーツ新聞によると、ロジャー・ウォーターズは実に30年ぶりの来日であり、昨日の大阪初日はワールド ツアーの初日でもあるということであった。
●絶え間なく続く組曲化したメロディの洪水の中から突如浮かび上がる聴き慣れたフレーズの数々には思わず“ハッ” とさせられる独特の感興がある。
繰り返し聴いた『狂気』や『ウォール』といったアルバムの中の、どの曲とは特定できないサウンド群のDNA的レベルでの刷り込みがその正体なのだが、その一瞬には確かに全身が震えるような感覚がある。だが、実際には総じて退屈を否めないライヴでもあった。
●それは、今回の売りであるサウンドもライティングもすべてがコンピューターで制御され、なんの澱みもなく進行する時計じかけのライヴ 〜確かにサウンドはベラボーに良い。参加した面々のテクニックも申し分ない。しかし、これをライヴと呼んで良いものかどうか? 実際に目の前で演奏されているという実感が異常に乏しいのである〜 だからこそ、逆に起こった現象であった。優秀なミュージシャンたちは機械の演奏に遅れないよう懸命に作業(演奏ではない)を行っているのだ。
●そしてそれ以上に筆者が思うのはピンクフロイドというバンドあるいはロジャー・ウォーターズというミュージシャン個人の持つ資質的な問題である。
どこまで行っても実に内省的で、いま流行りの言葉で言えば“ひきこもり系”(笑)ミュージシャンの代表といってもいいロジャー・ウォーターズの音楽は、やはり言葉への比重が物凄く高い。そのためメロディにもビートにも実に乏しいのだ。彼の音楽にとって、メロディやビートはおまけといってもいいくらいなのだ。
●英語圏の住人ではない筆者など、やはり洋楽はメロディとビートで聴いてしまうから、朗読のように唱えられるその楽曲は、どうしても退屈、極まりないものになる。
●いずれにしてもここで提示されたのは、もはや滅亡した過去の恐竜的遺物であり、ライヴ中盤、まったく知らない曲が連発され始めると、睡魔との格闘と相成った。仏作って魂入れず。ロックとは何よりもまず肉体で反応し、興奮させるものでなければならない。システムの優秀さではなく、そのスピリッツで聴衆を踊らせるべきなのだ。