テレビの画面に、野球選手が映っている。
バッターボックスに立つ打者の肩のあたり。ユニフォームは水色と白のストライプで、袖口には空中に躍り上がる魚のエンブレムが縫い付けられている。金と緑の糸で刺繍されたその魚は、大きく口を開いて水面から高く跳ね上がり、肺のない身体で空気をけんめいに吸い込もうとしているように見える。
打者は、ピッチャーの投球を待ちながら、打撃の感触を確かめるように二三度ゆっくりとバットを素振りする。紺のヘルメットを目深にかぶった打者の表情を確かめることはできないが、こめかみのあたりに見える短い銀色の髪は汗と思われる水滴にうっすらと湿っており、桃色の舌をわずかに覗かせて乾いた唇をなめるその仕種からも、やや緊張していることが見て取れる。
ほんのわずかの間、満員のアルプススタンドが画面に映る。観客たちは、手にした赤い筒型の風船をさかんに振っており、そのために観客席全体が不規則に波打っているように見える。どうやら、ゲームは最高潮の盛り上がりに達しているようだ。
ヘルメットの庇に手をやり、打者はマウンドの方向へちらりと視線を投げた。一瞬、鳶色の不安そうな目が見える。その視線を追うように、画面は内野の光景を映し出すが、グラウンドではナイター照明に照らされた人工芝の緑が燦然と輝いているだけで、マウンドの上に投手の姿を見つけることはできない。ということは、ピッチャーはまだ登板していないのだろうか。
しかし、画面はいきなり、ピッチャーの顔の大写しに切り替わる。少年のような幼い顔。目もとはやはりヘルメットに隠れて見えない。真剣な表情でキャッチャーからのサインに細かくうなづき、またかぶりをふるといった仕種を繰り返し、いっこうにセットポジションに入る気配がない。
そのピッチャーの様子に苛立ったのか、打者はバットをおろしていきなり背後を振りかえり、何事かを大声で怒鳴る。不意の動作に、後頭部に浮かんだ汗が水滴になって飛び散り、細かい霧になって画面の端に消えていく。
悠子から電話がかかってきた。
何してたの? 野球を見てた。そうじゃなくて、今朝よ。どうして来なかったの?
約束では、今日は朝から、悠子と、悠子の友人の弓子と、弓子の彼氏で魚類学者の高橋と4人で地下鉄の湯島の駅で待ち合わせ、上野動物園の水族館に行く予定だったのだ。それを行かなかったのは、実は昨日、弓子から来ないでくれと電話で頼まれたからだった。あんなことがあった後で、悠子とあなたと、どういう顔で会ったらいいのか分からないのよ。
あんなこと、と弓子がいうのは、一週間前の病院での出来事のことだろう。いままで、悠子の学生時代の友達としか思っていなかった弓子が、どうして突然あんなふるまいに出たのかがまったく分からない。そのあと、退院祝いに来た時には何事もなかったような素振りだったので、あれは一時の気の迷いだったと思っていたのだが。
しかし、悠子にその話をするわけにはいかない。まだ、何となく不安なんだ。外に出るのはいいんだけど、電車に乗ったりするのはやっぱりね。
でも、先週は平気だっていってたじゃない。会社だって行ってるんでしょ?
その通りだった。先週1週間、電車に乗って会社に出かけて、仕事もして、少し足元がふらつくような感じはあったが、おおむね何事もなく平気だった。犯行現場になった山手線にも乗ったが、事件の記憶がフラッシュバックで蘇るといったこともなかった。
返答につまってテレビの画面に目をやると、ゲームはタイムで中断しており、選球に迷って時間がかかりすぎている投手のところへキャッチャーが駆け上がっていくところだった。緊張が解けた打者は、いったん構えかけたバットをおろし、足元に目をやりながら息をつくように肩を回す。そして、ヘルメットを脱ぎ、目を閉じたまま大きく首を左右に振った。思っていたより長めの銀髪が散り乱れ、飛び散る汗の滴が強いライトに照らされてきらきらと光った。
マウンド上では、投手とキャッチャーとの話し合いが続いている。捕手は、やや頑なに顔を伏せたままのピッチャーの肩を抱き、頬に口をつけるようにして二言三言強い調子で何かを語りかけている。
何を話しているのだろう? 無意識に手元のリモコンを操作して、消してあった音声を復活させようとするが、どうしたわけかテレビは無音のままだ。
まあ、いいわよ。しかたないわよね? まだ2週間しかたってないんだもの。
急に黙り込んでしまったこちらの沈黙を気遣うように、悠子が助け船を出した。そう。まだ2週間しかたっていないのだ。山手線目白駅の周辺と駅構内、そして発車間際の電車内で計6人の男女が無差別に殺され、自分を含む26人が重軽傷を負ったあの事件は、数日にわたって新聞の紙面を独占し、今日になっても犯人・丸岡高志の知られざる生い立ちなどを追跡する囲み記事が社会面に掲載されたりなどしている。肩に残った傷は今でも寝起きの朝に少し痛むし、シャツを着替える時など、まわりに血の臭いが立ち込めているような気がすることもある。しかし、事件そのものは遠い日の出来事のようにも思われるのだ。
約束を破った理由の追及をあきらめ、今日は弓子と高橋が仲良さそうだったこと、古代魚についての高橋の解説が面白かったことなど、水族館見物の報告に移った悠子の声に耳を傾けながら、なぜあんなに凄惨を極めた事件の記憶が、急速に遠ざかってしまったのかを考える。
小学生の時、郷里の弓削ガ池のほとりにある音楽山の中腹で大学生の白骨死体を見つけた後は、強烈なフラッシュバックに悩まされた。君はだれ? お願いだから、もう来ないで。繰り返し繰り返し、目の前に立ち上がってくるそいつに哀願した。でも、毎日のように訪れる光景の中の白骨死体はやがてひとつの人格をまとうようになり、いつしかそれと親しく言葉を交わすようになっていった。それを治癒と呼んでもよいのだろうか、いまでは生活の欠かせない一部となっているガイコツ君と呼ばれるその人格のことは、まだ悠子にも話したことがない。
電話を切る前に、思い出したように悠子がいった。そういえば、高橋さん、君に何か渡したいものがあるっていってたよ。弓子は、何だか知らないっていってたけど。
電話を切った後、高橋が渡したがっていた物とは何かを考えた。魚というより、どことなくトカゲに似ているその弓子の彼氏の魚類学者には、まだ2回しか会ったことがない。魚や動物に興味がないわけではないので、いろいろ教えてくださいよ、と声をかけはしたが、特別に贈り物をもらうような親しい関係でないことはいうまでもない。もしかすると、あの日、病院で弓子と交わした突然の愛撫と、何か関係があるのだろうか。あのことを、高橋は知っているのだろうか。
また、電話が鳴った。
受話器を取ろうとして、あわててテレビのリモコンに手を触れてしまったのか、いままで沈黙していたテレビの音声が突然フルボリュームで復活した。部屋の中が、野球場の歓声で満たされた。受話器をとって耳にあてるが、そこからも悲鳴のように打者の名を連呼する群集の声しか聞こえてこない。
画面の中では、投手がつま先立ちに両手を宙に伸ばし、ゆっくりとセットアップに移った。目が、金色に光っている。
それに応えるように打者がバットをふりあげたその時、フラッシュバックがはじまった。