目の前をたくさんの人が歩いて行く。私は単に障害物としてここにいるだけだ。私はその人々の中から注意深く記号化している人を探し出す。記号化している人はすぐ分かる。その人々は疲れていて、そしてのっぺりとしているのだ。私は記号化している人の一人として、他の記号化した人々を眺める。単に記号化しているといっても、さまざまな種類がある。何かの文字になってしまった人、または様々な文字の組み合わせになってしまった人。あるいは何かの物質になってしまった人。つまりセロテープ、造花、コンクリートの欠片など。あるいは絵、楽器、身体の一部(内臓や性器など)、化粧品、銃、カーテン、魚の骨などである。それらの人々は記号化した、というよりも、完結した、あるいは固定化した、といった方が良いかも知れない。どう形容するかは人によって異なるが、私は私を含むそれらの人々の事を「記号化した」人々と読んでいる。

 私はここに座って、記号化した(あるいは完結した、固定化した)人々をただ見ているわけではない。それらを集め、数値化することで、「記号化する」ということの意味、またはその先にあるものを見ようとしているのである。これは非常に手間のかかる作業だ。それにもしかしたら何の意味もないかもしれない。私はここで、今までに三万六千二百八十五人の、記号化した人々を見てきた。その人が何歳位で何に変化しているか。男なのか女なのかどんな風貌をしているのか。私は灰色のバインダーに挟んだ調査用の表に、すばやく鉛筆で印をつける。そして家に帰ってからそれをパソコンに入力し、いくかの表とグラフを作る。そしてそれまでのグラフと比べたり、壁に貼ってみたり、楽しみ方は気分次第だ。

 これまでの調査によると、平均すると若干、春に記号化した人々は増えている。しかし季節によってはほとんど変わらない。恐らくこの調査を十年、二十年と続けていけば、季節による数値の差異はほとんど無くなるだろう。また、記号化した人々の絶対数はほとんど変化しない。人口の増減に関わらず、全く変化しないのだ。これは私の調査のみから判断したことではなく、世界中の調査のデータから見てもそうなのだ。つまり、記号化した人々は増えると同時に減っているということなのだ。これが何を意味するのか、それはまだ何も断言できない。記号化の定義すら、まだ定まってはいないのだ。しかし私の考えによると、恐らく、誰かが記号化すると全く同時に、既に記号化していた誰かが記号では無くなっているのだ。一秒もずれることなく、全く同時に。それは死なのか、あるいは再生なのか、それとも私の知らない何かなのか。これは既に記号化している私にも深く関わっている問題なのだ。気にならない訳がない。

 ふと、前から、異様な雰囲気の男が歩いてきた。男は、人々の隙間から見え隠れし、灰色の何かを撒き散らしている。記号化しているようだが、これまでに私が見てきた人々とは何か少し違う、しかしその男は確かに記号化している。だが頭のてっぺん辺りにうっすらと、何と言えばいいのか、割れ目、あるいは影、あるいは傷、のようなものが見える。男は痩せていて、少し汚れた身なりをしているが、悠然と歩く為か実際以上に大きく見える。私はとりつかれたように立ち上がり、男の後ろを追った。男はゆらゆらと灰色の空気をくゆらせながらゆっくりと歩く。私は、うっすらと割れた男の頭だけを見て人ごみを歩いた。男が人の流れを離れ、路地に入っていく。私は気付かれないように少し離れ、男の後について行った。男は工場が立ち並ぶ辺りへと歩いていく。ゆっくりと、堂々と。男は立ち止まることもせず、わき目も振らずに歩き、煤だらけで真っ黒い大きな工場の脇の狭い路地の中へ入った。ものすごい臭いだ。私がハンカチで鼻を押さえながらそっと角を曲がった。曲がると、道はくっきりと二つに分かれていた。男の姿は見えない。片方の道には緑色のフェンスが見え、もう片方の道には灰色の高い壁が見える。緑色のフェンスの向こうは飛行場か何かのようであり、中くらいの飛行機が何台か滑走路に置いてある。私は少し迷ったが、灰色の壁の方へ向かった。私は息を潜め、足を踏み出した。突然、後ろから誰かに押さえ付けられ、私は気を失った。目を閉じる瞬間に灰色の割れ目がはっきりと見えた。それはぱっくりと割れていて、向こうには何も見えなかった。

 というわけで今ではもう記号化した人々を見るのは辞めてしまった。何よりも私がもはや記号ではないし、かといって有機物でも無機物でもない。じゃあ何なのかと聞かれてもわからない。結局のところ、私はやかんではなかったということなのだ。

2006年12月12日号掲載
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