母が交通事故で死んだ。買い物をした帰りに、自転車で交差点に突っ込んだのだ。事故現場には卵やトマトなどが潰れて転がっていて、彼女の血液とぐちゃぐちゃに混ざってとても美しかった。私は姉からの電話でそれを知り、まず事故現場に向かった。その場所で大きく息を吸い込むと、頭の中に事故の映像が流れ込んできた。彼女は虚ろな目をして自転車のハンドルを握っている。銀色の、きれいな自転車で、一昨年の誕生日に姉がプレゼントしたものだった。私は制服のスカートに母の血液を染み込ませた。車が猛スピードで走る。急ブレーキをしたが間に合わなかった。母は三メートルくらい飛ばされ、ゆっくりと頭から地面に叩きつけられた。綺麗な黒い髪が血でじっとりと濡れている。

 白い台の上に寝かされた母はとても美しく、少し笑っていた。看護婦さんに聞くと、最初から笑っていたのだそうだ。こめかみの傷がファンデーションで隠されている。私は濡らしたハンカチでファンデーションを拭き取り、傷口を眺めた。ぱっくりと綺麗に割れていて、白いハンカチに少しだけ血が付いた。私は黙ったまま鼻の中の脱脂綿に少し母の血を吸わせた。姉が少し笑った。

 外の黒いベンチで母の恋人がおうおうと泣いている。ああ、気の毒に。私は母の恋人に血の付いた白いハンカチを渡した。その人はそれで涙を拭き、鼻をかんだ。そしてまた嗚咽を上げた。

 母の恋人は姉と変わらないくらいの若い青年だ。姉と同じ大学に通っていた人で、母に会うためによく家を訪ねてきた。美しい母はいつも笑顔で彼を迎え、晩御飯を一緒に食べたりした。当時中学生だった私は、複雑な気持ちでそれを眺めていた。姉はその頃ほとんど家に帰っては来なかった。

 家に帰っても遺書などは何もなかった。母の衣類や持ち物はいつもどおりクローゼットの中に片付けられていて、部屋の中は完璧に掃除されていた。母の親戚たちが私の家に集まっていて、何か色んな事をしている。姉は叔母と何か話していて、私は階段を上がって自分の部屋に入った。

ピリリリリリリ

 携帯が鳴った。私は通話ボタンを押して携帯を耳に近づけた。もしもし、と男の声がする。私は電話を切ってそれを水槽の中に入れた。赤と白の金魚が驚いて水草の陰に隠れた。私は電池の中から変な液体が出て金魚が死ぬかもしれないということを思いつき、とっさに携帯を水槽の中から取り出した。そしてそれをカバンの中に入れた。

 

 波の音がする。私はピンク色のビーチサンダルを履いて知らない男の人と砂浜を走っている。笑いながら、あはははは、あはははは、あはははは、あはははは。私は自分の声を聞きながら身体をよじらせるように笑う。もうだめ、お腹痛い。顔を上げると母が目の前に立っていた。妙に優しい顔で私を見ている。私に何か頼むときのあの顔だ。私は笑うのを止めて母に話しかける。どうしたの。母は何も言わずに私のほうを優しい目で眺める。私は首にかけていた白いスカーフを母の髪に巻きつけた。綺麗。昔の映画に出てくる人みたい、と母に言うと、母は豪快に笑った。私も笑った。母は楽しそうに笑い続ける。私は笑う母を見ながらじっとしていたが、あまりに笑い続ける母が怖くなったので母の肩を揺さぶった。お母さん、お母さん。母は笑い続けるだけで何も答えない。私は鮮やかなピンクのビーチサンダルを脱いで母の頬をぶった。母はもっと笑い、その場に倒れた。お母さん、お母さん。母は笑う。砂が急に柔らかくなって母の身体を誘い込む。母は笑いながらずぶずぶと沈んで行き、何も見えなくなった。私はサンダルで穴を掘った。白いスカーフが足に絡みつく。くるぶしが砂に埋まる。あ、しず、む。 目が覚めた。

 

 家の中が線香臭い。階段を下りてリビングに入ると唐突に母が寝かされていた。私は驚いたがそのままキッチンの冷蔵庫を開けた。何も、入っていない。そうか、母は買い物の途中で死んだのだ。だから何もないのか。私は冷蔵庫から干からびたチーズを取り出して齧った。胃液が逆流する。私はチーズを捨てて流しに胃液を吐いた。振り向くと姉が哀れんだ顔でこっちを見ていた。姉は少し笑っていた。母の死に顔とそっくりに。

 私は、走って家をあとにした。キイィとブレーキの音がする。かんかんかんかんと踏み切りの音がする。私は耳を押さえ下を向いて走った。突然クラクションの大きな音がして振り向くとトラックが近づいていた。あ、と声を上げるとトラックのマフラーに私の顔が映った。私の口は笑っていなかった。私は安心して少し笑った。

2005年11月14日号掲載
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