すずねが三番町から居を移すころ、要とのつきあいが始まり、というのはその夏に要がその美術サークルに入ったからなのだが、他の者からやっかみ半分に専属運転手と言われたりしながら、彼はけっこう <恋してる>
気分になっていた。その当時、アッシー君だのミツグ君だの、利用されるだけの男友だちを指す言葉がまだはやっていなかったのは、彼のプライドにとっては幸いであった。
もともとは沖縄かどこかもっと南のほうの人なのかもしれない、と自分でいうとおり、 <すずね>
という名前から想像される色白の細身の美女というイメージに反して、彼女はまるで色黒のキューピー人形といった顔つきをしており、特に長くはないけれども、ひときわ濃い睫
毛にふちどられた、くっきり二重のまん丸の目を要は気に入っていた。小さくて厚めの唇、小柄だけれど凹凸
のはっきりした体つき、ずっしり重くゆるい渦を巻く漆黒の長い髪、脚や胸はとりあえず最低限隠れていればいいといわんばかりの大胆なキャンパスファッションなど、彼が惹かれた美点は主にリビドーに由来するものではあったが、一緒に過ごす時間が増えるにつれ、南洋的なおおらかさや、つかず離れずの独特の距離感に魅了されていった。
二人にとってのエポックメーキングなできごとは、彼女が巣鴨から新井薬師へ引っ越した時に起こった。
それは、合計四世帯の複雑なつくりの一軒家風のアパートの一階奥で、建物本体は、少なくとも築何十年だかの歴史が感じられた。部屋の間尺は江戸間サイズ、六畳、四畳半の続き間と三畳ほどの洋間、同じくらいのキッチンと無理やり入れたようなユニットバスルームという間取り。七万円という家賃は、当時、六畳程度のワンルームマンションと同じくらいだった。
「広過ぎるんじゃないの?」
あきれる要を尻目に、すずねはすました顔で、
「そう? でも私、十畳ぐらいのひろーい和室が好きなの。旅館みたいでしょう。ここ、ふすまはずすと、ほら。それに縁側があるのよ、縁側が」
黄ばんだ障子を開け放つと、木枠のガラス戸の向こうは、なるほど濡れ縁になっていたが、目と鼻の先に無骨なブロック塀が立ちはだかっている。
「隣、大家さんちの息子夫婦の家だって」
ブロック塀の向こうには、白い外壁の瀟洒な2×4住宅が、こちら側に小窓が一つきりしかない、のっぺらぼうな壁を向けて建っている。
「なんだ。縁側といったって、庭があるわけじゃないんだ」
と言って、玄関ホールも兼ねた板敷きのDKから和室に足を踏み入れたとたん――要は、すうっ、と立ちくらみに似た感じを覚えた。
古い建物だから水平が狂っているのか、根太が傷んでいるのか、と一瞬思ったが、むくむくと頭をもたげてくるそれが、ふだんできるだけ意識しないように努力している、できれば感じたくない感覚であることは自明だった。あの馴染み深い、異界からの、低い、召喚の声。
「カナ君。何してんのよ。さっさっと荷物運んじゃいましょう。前の道、狭いから、そのうちクラクション鳴らされるよ」
「はいはいはいはい」
彼が呻くように答えると、すずねは、その顔色の悪さに気づく様子もなく、「<はい>
は一回でいいの!」
サークルの友人一名が手伝いを申し出ていたものの、結局、午前中の積み込みだけで帰ってしまったので、荷物は二人で運び込むしかなかった。整理整頓の行き届いたすずねの荷物を運ぶのは楽なのだが、反対を押し切って、ほとんど出奔するように東京の大学に進学した一人娘に、結局は折れた親が、まるで嫁に行くかのようにそろえて持たせた家具は、さすが木材の本場九州だけあって重厚なものが多く、チェストや机、ベッドの重さは半端ではない。
「これ、実家に送り返すのも大変でしょ」
と、引っ越しのたびにすずねは言っているが、彼女は、流行のアルミパイプの家具や合板のぺらぺらカラー塗装のカジュアル家具を嫌っていたし、置いてみると、ブナだかナラだかクルミだか要にはよくわからないが、それらのシックな家具は、今度の部屋にはよく似合っていた。前の巣鴨の真っ白なワンルームでは、明らかに浮いていて、いかにも重苦しかったのだが。
段ボール箱にはすべて内容物が書かれていて、中には明らかに要に向けたメッセージなのか、
『ヒミツ、アケルナ!』
『コワレモノ、ゼッタイオトスナ』
とカラフルなマーカーで大きく書かれたものがある。
はあはあ喘ぎながら全部運びこむと、またしても立ちくらみのような
<あの感覚> に襲われ、今度は、上から強い力で押さえつけられたかのように、思わず膝をついてしまった。
「どしたの。カナ君」
目の前にショートパンツから突き出たすずねの腿。現金なもので、すっと重さがとれたような気がしたが、まだ薄暗いままの視界の中で、要は確信した。
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