text/吉田直平


「黙ってるね」ぼくは言う。

 プロトンは顫えている。

 ぼくは捩じむけた首が痛みだすまで、じっと動かずにいた。ぼくの従姉妹の一葉の写真。ぼくもまた、顫える指の先で、眼に見えざる従姉の首すじ、背中、腋のしたをまさぐるようにする。写真の従姉はぼくの知っている従姉よりも三歳年下で、おそらくその左足首には、ぼくの知っている火傷の痕はあるまい。そうぼくは思う。記憶の指で、ひきつれた皮膚をなぞる。「なにをぼんやりしているの?」とプロトンが言う。プロトンとぼくは髪の端から雨粒を滴らせながら、霧雨の中、蕭然と立ち竦んでいる。針を落としても聞こえそうな静寂。ぼくはのろのろと我にかえる。いつも言われてばかりなのだった、なにぼんやりしてんのよと。「早く行こうよ」と彼女は続けて言う。「さむいのよ」

「それで?」とプロトンは訊く。「なんと言ったの?」彼女はとうとう編み機を片づけてしまった。「言っときますけど、これはあたしが着るサマーセーターですからね」彼女は念をおして、立ち上がった。「アイスコーヒー、飲む?」粉っぽい匂いが舞う。「それで?」とぼく。「――そう言ったんだ」「ぬけぬけとしたもんねえ」キッチンから声だけが漂ってくる。「なにが?」ぼくは訊いた。彼女はフリーザーから氷を出している。「なにが?」ぼくは訊いた。

 ぼくはゆっくりと丘の上から見渡す。

 かなり遠くのほうまで景色が横たわっているのがはっきりと見えるのは、丘の高さが駅側とその裏側とではまるで違うためだ。駅舎は高台に建っているのだ。ぼくはやがて夜の白みはじめる一角を見つける。いずれにせよ、それは雨にけむったごくわずかな色と空気のたゆたいにすぎないのだが。絶えまなく変化する微妙なよどみ、ゆるやかに漂う空気すら見分けることができる――遠くは鮮やかに明晰で、近くなるほど急激に希薄化していく景色。

「そこで一晩泊まってね、あたしはなんだか諦めてしまったと思うのよ」いずれにせよ、それはごくかすかな、緩慢なたゆたいなのだ。

「諦めてしまった」ぼくは言った。「今も、諦めてしまっている?」

 もっとも、「今」というのは便宜的なものだ。どうしても。そこではぼくの従姉の写真のように、何もかもがストップモーションになってしまうし、ピントも少なからずあまくなってしまう。

「今は」従姉は答えた。「そういうもんだと思ってるけどね」彼女は言った。「でもそこで失ったものを取り返せないだけで、 なにもあたしはそこで諦めてしまうこともなかったんだと」彼女は言葉を結んだ。「そう思うのよ」

 ゆっくりと首をめぐらせたところに、ぽつんと冗談のように小屋が建っているのが見つかる。「今でもあそこにあたしの写真が貼ってあればね」大湿原だ。そう思ってプロトンは早くも脇腹が痒くなる。「写真が? その納屋に?」雨はしっとりと、脱脂綿に含ませた水のように、皮膚には感じられない。「そうね」

 そうだろうか?

 ぼくは丘を降りかけながらやっと気づく。納屋は骨組みだけだ。それもところどころで途切れ、先端は黒く丸まっている。周囲の草も黒く干からびている。焼きつくされたあとの。

(了)

2004年6月21日号掲載

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