p o e s s a y
 

 
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 / 
 葦 
 本 
 絡 
 憑 
 ∧ 
 あ 
 し 
 も 
 と 
   
 ら 
 っ 
 き 
 ょ 
 う 
 ∨ 
 

 

 ★はじめに
 《葦本絡憑の poessay 宣言》

 其の一 poessay の定義
 poessay とは――「リンゴちゃん」みたいにほっぺがポッと赤らむような、無垢でキュートなエッセイのことを言うのである。

 

 ★本日のお題
 「小沢(1)郎の死に想う」

 小沢(1)郎が死んだ。
 この報道は、中川(1)郎の死よりも、新井将敬の死よりも、
 はるかに私を驚かせた。
 あれほどの傲岸不遜の男が、あれほどの傍若無人の男が、
 なぜ死を持ってして、己を示さねばならなかったのか。
 彼の死に様の風景には、なぜか
 三島由紀夫の神話が似合うようであった。
 なぜ彼は死ななければならなかったのか。
 あるいはなぜ、彼らは、死ななければならなかったのか。

 新民主党は、一体どこへ行くのだろう。
 そんなことはどうでもいい。
 しかしながら、彼らの中には、決定的なあるものがある。
 それは、彼らの顔である。彼らの声である。彼らの身振りである。

 菅直人とクリントンとブレアとビル・ゲイツの顔を想い浮かべるのである。
 それから、
 小沢(1)郎と田中角栄と春日一幸の顔を想い浮かべるのである。
 最後に、
 私の会社で繰り広げられている人脈地図を想い浮かべるのである。

 その後で、なるほどと思うのである。

 かつて、権力を握る人間の絶対条件があった。
 押し出しが強く、声が大きく、
 そして、おのが言葉を全身で表現できる奴。
 20世紀のとある時期まで、それはジャンルを越えていた。
 共産主義だろうが、自由主義だろうが、
 表現において、それは同じである。
 右も左も、あったもんじゃない。
 とにかく、声が大きければ良かった時代があった。
 なぜなら、それが、もっとも日常的な風景にリンクしたからだ。
 百姓だろうが、宮仕えだろうが、日々の生活の中で、
 直接的にもたらされるモノは一体何だったのか、といえば、それは、
 皮膚の距離感によって成立していた。

 だからこそ、小沢(1)郎は面接がしたかったんだろう。
 それは、彼にとって、確信的な行為であったのだ。

 ところが、ここへ来て世界は、
 大きく、そうじゃないところへずれ込もうとしている。
 そのことを、身を持って証明したのが、今回の小沢(1)郎の死だった。
 権力というモノの、本源的な質の変化。
 ビル・ゲイツの台頭と小沢(1)郎の死。
 菅直人の甘いささやき。
 クリントンの、
 どんなに浮気して教会から叩かれようが支持率を下げない構図。

 今、明らかに、権力の質が変わろうとしている。
 橋本龍一の構造改革の前に、
 もっと底のところで、権力の質が変わろうとしている。

 この、20世紀の終わりに訪れた本源的な権力の変質を指して、
 私は「ポスト小沢(1)郎現象」と呼びたい。

 この時代、声は力を必要としない。
 かつて口先の言葉、という言い方があったが、
 いまや、指先の言葉である。
 右手と左手の微妙なブラインド・タッチで
 言葉は変容し、声色を変える。
 そしてそこには、声の圧力も眼光の鋭さも通用しない。
 この世界で、なおも、声色でおのが権勢を主張しようものなら、
 そいつはとんだ悲喜劇だ。
 前時代的悲喜劇だ。
 ゆあ〜ん、ゆよ〜んの悲喜劇だ。
 おかしくも哀しく退屈にして迷惑な一人芝居が、
 その後むなしく展開することは目に見えている。

 この時代の権力の有り様は、まるっきり変わってしまおうとしている。
 それに気がついている年寄りだけが、年寄りの中で生き残る。
 いくら大声張り上げたって、
 なんぼなんでもモニターの向こうでは、
 ちっとも怖くないのである。

 すべてが客体化される現在という恐怖。
 そのことに気がつかなかった小沢(1)郎の死。
 いかにもそれは、今日を象徴する出来事であったとは言えまいか。

 1998年3月吉日      港の見える丘在
                  葦本絡憑(あしもと らっきょう)記

  ※おことわり 上記の作品に登場する人物はすべてフィクションです。

          [次回のお題予告「プリミティブ文学試論」(多分)]