靉光像 1928(昭和3)年
油彩、カンヴァス 45.7×37.8cm
|
「生きることは絵を描くことに価するか」と自問しながら、震災復興期の大正末から昭和恐慌を経て日中戦争へと突入する昭和初期のモダン都市東京の巷を徘徊し続けた長谷川利行は、ついに太平洋戦争目前の昭和15年の春、三河島の路上で行き倒れ、10月、板橋の養育院で、胃ガン末期の痩せさらばえた躯を誰一人の知友にみとられることもなく、孤独のうちに逝去した。
ここで不思議に思うのは、同じく一所不在の行脚者として漂泊を続けた俳人種田山頭火の、その放浪の期間も大正末から昭和初期、しかも死去する年月までがピタリと一致することだ。山頭火が松山の一草庵で死去したのは11日、その翌日に、東京で利行は息絶える。この符合の不思議を思うとき、昭和初期のモダニズムの光芒の中には、「漂泊者」を生み出す闇の力が確かに潜んでいたと想像せずにはいられない。
しかし、山頭火と利行とでは、二人の放浪の舞台を見れば、また対称的とも言える。山頭火の歩んだ道の大半は霊性を秘めた巡礼の地、かたや利行のそれは、浅草、上野、銀座、新宿、池袋……と、当時のモダン都市東京の気圏内を一歩も出ることはない。
そうした利行の放浪の軌跡と、そこで演じられた数々の酒と奇行のエピソード、さらには遺された数少ない絵自体に顕れた、時に「半塗り」「半出来」と揶揄されもした荒々しさ、激しさから、得てして我々は〈長谷川利行=無頼派=野獣派=アウトロー〉といったイメージの烙印を刻みがちである。確かにそのイメージに誤りはないとしても、それによって生まれる物語性から、作品自体の印象も、あたかもその物語に登場するよき脇役たちの如くに、強引な絵の押し売りやモデルの強要といった伝説的エピソードを伴いながら印象深く画像が焼き付けられる「靉光像」「岸田国士肖像」「前田夕暮氏像」や、酒場やカフェや演芸場の女給や芸人たちの姿など、一連の肖像画群が利行絵画の象徴として記憶に残りやすいのではないだろうか。
しかし、没後60年の記念展である今回のようにまとまった形でその画業の全貌を見渡すとき、物語としての人間・長谷川利行の魅力とはまた別
の、いわば絵画それ自体が持つ力に、あらためて気付かされるのである。そこで発見する長谷川利行の画業の本領とは、必ずしも肖像画の裡にあるのではない。むしろ私は、数々の風景画の中にこそ、それを認めることが出来た。
行きつけの酒場やカフェをアトリエとしたのと同様、ふと立ち止まった路傍をアトリエとして、時に40号の油彩
を30分、80号を1時間で、などという伝説を残した利行の早描きの風景画群は、確かに油絵具を使ったクロッキーとも言えるような、目に入る像の色彩
と形態を瞬時に捉えてキャンパスに素早く刻み込むその速度と熱が画布にありありととどまっている。見るも描くもあまりにも素早い瞬時の営みであるがために、その画布に付置された像は限りなく具象から抽象へと近づいてゆき、見る者誰しもにとってその絵画の初見の印象は、「ぐちゃぐちゃ」の「ごにゃごにゃ」といった感であろう。
タンク街道
1930(昭和5)年
油彩、カンヴァス 80.8×61.0cm
|
けれども、たとえば作品「タンク街道」に画布から30センチの距離まで近づいて見たとき、画面
中心下方の塗り残しの空白、その消失点へまさに消え入ろうとするかのようなわずか何本かの黒く太い線の上下運動の痕跡は、そこからほんの1メートルも離れて眺め直せば、紛うかたなき一人の男の像として立ち現れるのだ。しかも、幾分猫背の後ろ姿のその男の見えない表情すら、そこに感じるほどの力を持って。この作品が生まれた昭和5年は、まさに昭和恐慌のただ中で、失業者が巷に溢れた年である。立ちはだかる赤々とした巨大な鋼鉄のタンクに向かって歩く憔悴しきった表情のその男も、あるいはそうした失業者の一人かもしれない・・・、などと妄想はふくらむ。
また、「鉄橋の見える風景」や「新宿風景」などの作品の中に点在する赤や黒の筆触も、ほんのわずかに遠望すれば、まさしく蠢きざわめく群衆の像へと変貌する。 図版ではほとんど追体験できない利行作品のこのマジックとも思える不思議な力は、一体何か? と、ふと、こうした利行の魔法が力強く発揮されている作品は、例外なく極めて明瞭な確たるパースペクティヴが画面
に構築されていることに気付くのである。
ごちゃごちゃぐにゃぐにゃと一見みえる世界が、よく見ればそこに明確な消失点を孕んだパースペクティヴの空間によって成立し、また、そのような構成を獲得したときにこそ、利行の創出した画布の中の空間は、その荒々しい筆触と豊穣な色彩
の乱舞によって、ざわざわと動き出すのである。
鉄橋の見える風景
1935(昭和10)年
油彩、カンヴァス 45.9×60.9cm
高橋由一設計
螺線展画閣略図稿
|
そのことの発見は、「細かに描き上げて行きますとその筆力が伸びませんから、上手に行かぬ
計りでなく美感が消されて深い美しさに到りません」という利行自身の遺した言葉とまっすぐに繋がるのである。利行の早描きは、店や路上をアトリエとしたため、あるいは嫌がる相手を無理矢理モデルとしたため、さっさと絵を仕上げそれをさっさと押し売り、金に換え、酒に換えるため……といった外的条件による理由も確かにないこともないだろう。しかし、一方でそれは表現方法として自ら相当に意識した選択であっただろうし、また同時にそれに対する自負も相当なものだったに違いない。
「生きることは絵を描くことに価するか」という利行の自問の答えは、この絵の中のパースペクティヴの消失点の中にこそあるのかもしれない。彼は、その消失点を絵の中に生み出すことで、最後には「生きることはこの絵の中に宿った生命に価しないのだ」とでも言うかのように、自分自身をその消失点の彼方へと放り込み、去ってしまったようだ。
モダニズムの時代の光と闇のかたわれを象徴する存在の一人は、こうして自らの物語を完結したとも言えようか。遺された絵画の中の、群衆のざわめきの中には、すでに軍靴の音も紛れ込んでいたことだろう。
|