公営巨大貸し画廊「国立新美術館」もついにオープンし、いまや“六本木アート化計画”に邁進するこのエリアの総本山たるヒルズの森美術館へ、足を運ぶ。
広がりゆく格差社会の中で、勝ち組の笑いが止まらないせいか、「笑い」をテーマにした二つの展覧会が併催されるという、思えば皮肉かつ、ユニークな試み。かたや縄文から近代までの日本美術の中に偏在する「笑い」を体系化して見せる
<日本美術が笑う> 展。かたやフルクサス以降の世界中の現代アートの中に遍在する「笑い」の様相を提示する
<笑い展 現代アートにみる「おかしみ」の事情>。
笑いの偏在的通史と遍在的現在――X線状にねじれつつ対極的な(でも結構シンプルな)視点を一つの箱の中に別物の企画として併置するという、こういう試みは、発想の面白さに比して中身が伴わず企画倒れ、ということが往々にして起こりうる。が、しかしこの展覧会は、そういう意味では成功している、と言えるだろう。
なぜか。
まず、最初に観ることとなる <日本美術が……> の方が、限られた空間の中で、縄文から近代までの日本美術の中の笑いのありかを、きっちりツボを押さえて紹介しているからだ。辻惟雄の奇想の啓蒙以来、日本美術=「わぴ」「さび」vs「華美」「ケレン」の構図だけとちゃう、こんな「とんでも」モンがあるんじゃ、ということを知る今日の観者たちからすれば、展示の大半を占める作品はある意味オーソドックスな顔揃えであり、それゆえ驚きは多いとは言えない。
けれども、なによりこの企画は、基本的な展示構成がいい。入口の「縄文の土偶」と出口の「円空・木喰の木彫仏」の間に、あれらの「とんでも」モンをぎゅうっとサンドする、そのアイデアが巧い。縄文の土偶、太古の中の最も初源的な造形から浮かび上がる微笑のイコン。そして江戸時代、円空・木喰の一木彫の仏像の中から浮かび上がる慈愛の微笑。千年を超える時空をまたいで、その二つの微笑に共通するものは、「無垢なる笑みの形象」だ。そして、その無垢の微笑みに包み込まれるように、わびさびと程遠いあれら日本美術の中の笑いの鬼っ子たちがひしめき合い、哄笑する。
お土地柄か、少なからぬ外国人の入館者たちの中には、今宵六本木の巷で女子をナンパするにあたり、「ちょっと日本人の精神構造について、認識をあらたにせにゃならんぞ」と焦る輩も居ったのではないか? 少なくとも、あの河鍋暁斎の「放屁合戦絵巻」を巻頭から巻末までスクリーンでちゃあんと辿った御仁であるならば。
それにしても、この展示で最後に円空・木喰の木彫仏を配置させたことは、返す返すも巧みな演出だ。求心的なスポットに照らされたあの小さな矩形の空間は、数百年を経てなお尽きぬ木彫仏から放たれる微かな神秘的芳香とともに、圧倒的な崇高感を顕現していた。そのことが、日本美術の中に渦巻く笑いのカオスをピシャリと〆るのにこのうえない効果を発揮すると同時に、次なる現代アートの「笑い展」への導入としても、図らずも(か?)見事な批評性をもって存在することになるからだ。
さてでは、円空・木喰に無垢の微笑をもって批評されることとなる「笑い展」の方は、いかなるものであったか。
まず冒頭に、ご存知オノ・ヨーコも参加した国際的な反芸術集団「フルクサス」、そして日本が誇る反芸術のパイオニア――高松次郎・赤瀬川原平・中西夏之、三人揃ってゴレンジャーならぬハイレッド・センター、この二つの60年代を席巻した国内外の象徴的な反芸術集団を取り上げ、それに関連する展示品が並ぶ。
とはいえ、いずれも主にハプニング、パフォーマンスという行為をもってして反芸術的アートを推進した彼ら彼女らであるがゆえ、展示されるものの大半はかつての反芸術的創造行為の残骸だといってもいい。あるいはまた、そうでないとしても――モノ自体が作品として提示されていたとしても、そのほぼすべてがコンセプチャルな企みのうえに成り立っている。それゆえに、展示品のそばに添えられた小さな解説パネルをいちいち読まなければ、展示されているものの意味がよく分からない、そして、意味が分らなければなにかを感じる契機も生まれない――というものが、ほんとのこと言えば、ほとんどなのである。
が、にもかかわらず、観覧者の多くは「読書をするために来たのではない」という思いが強いので、結局よく分からないまま雰囲気に肌をかすめるだけで、次のセクションへと移動することになる。
時々ある、かつての反芸術運動を回顧する展覧会で、このことは共通する悩ましさではなかろうか。と同時に、この問題は、この企画展のその後のセクションで展開する現代アートの展示を逍遙する中で感じる事柄とも密接に関連するのだが、しかしその前にもう少し冒頭のセクションについて触れておきたいことがある。それは、かつての先駆者たちに感じられる「素朴さ」についてだ。
「笑い」をめぐる現代アートの冒頭にフルクサスとハイレッド・センターを置く必然性は、彼らの反芸術行為が「無意味さ」の徹底によってあらゆる既成の価値観を転倒させることを目指すものであり、その「無意味さ」は、視点を変えれば「馬鹿馬鹿しさ」や「愚かしさ」と共振するものであり、それゆえ彼らを現代アートの「おかしみ」の原点と見做すことに依拠する。
だが、彼らのそのような「無意味な営為」は、「意味=既成の価値観」をアンチな対象として迷いなく措定できたからこそ、無意味でありながら営みに熱度があり、鮮度が、彩度があったと言える。行為の具現化の過程には、むろん当時の彼らにも表現者としての普遍的迷いと葛藤があったに違いない。だが、少なくとも彼らは、その彼ら自身の熱度と鮮度と彩度を確信犯的に自覚していたに違いない。だからこそ、彼らの行為は、今日の目から見ると、やけに無邪気に映り、素朴とさえ感じられるのだ。そしてこの無邪気さ、素朴さは、それまで通ってきた
<日本美術が……> の中で出会った感触に、少しだけ近いのである。
一方、その冒頭のセクションを経た後に展開する今日の若いアーティストたちのあまたの作品群は、まずとにかく、昨今の現代美術展のご多分にもれず、やったらめったらビデオアートが多いので、いちいち観るのに時間がかかるのであった。でも、今回はそのチョーめんどくささをあらかじめ覚悟して相当の時間の余裕を持って来たので、腹をくくって結構いちいち丁寧に見て回った。なので、ほんとうに一つ一つの作品を観るのに時間がかかり、あげくは予想通りものすごく疲れるハメに陥る。結果、その問題一点をとってみても、しまいには笑うどころか不機嫌になってゆく自分をひしひしと感じるのであった。
しかし、最近の現代美術にビデオが多い、ということと、フルクサスやハイレッド・センターの展示がその大半が残骸である、ということとは無関係の話ではない。本来フルクサスやハイレッド・センター、いやその他諸々のいまや伝説化した60年代の反芸術の旗手たちの「作品」の多くも、正しくは一回性のその現場に立ち会っていなければ体験できない表現なのであるが、そうはいってもせめて、痕跡としての映像がもっともっと多く残されていて(もちろんないことはないのだが)、こういう企画の中でもっと容易に目にすることができれば、我々同時代に存在しなかった者たちの理解と関心も、もっと深まっているだろう。だが、皮肉なことに、そうなればこの企画展は、会場冒頭でさらに多くの映像に向き合わねばならず、結果、もっともっと展観後の疲労は蓄積したに違いないが……。
それにしても、もちろん、不機嫌になっていったのは、なにもビデオが多くて観るのに時間がかかったからだけではない。それは、ほとんど冗談みたいな話で、不機嫌になってゆくほんとうの、というかもっと大きな理由は別のところにある。
真の不機嫌の理由は、この会場にひしめく作品の中に、あの縄文土偶の顔相に込められたほっこりとした笑みも、放屁合戦絵巻が放つナンセンスの極致による大らかな爆笑も、木彫仏の全てを許すかのごとき慈愛の微笑も、当然といえば当然ながら(というのも悲しいが)、まったくもって見当たらず、変わりにあるものの大半は「ひきつった笑い」だけだから――ということであろう。
しかし断っておくが、私は、「ひきつった笑い」を作品として顕現させる今日の作家たちを責めているのではない。むしろそれは、今日の作家の行為として間違ってはいない。作家が今という時代に正直に向き合うならば、そして向き合いつつ自らの作品の中に「笑い」を求めようとすれば、おのずとそれは、正直であればあるほど、そうならざるを得ないだろう。
だが、そうは言っても、人間の生理の問題として、「笑い」なんてものを敢えて無謀にもテーマとして取り上げてしまったがゆえに、これだけ一杯の「ひきつった笑い」の羅列につき合わされると、正直観る方は、かなりしんどいのである。
これらのひきつった笑いに比すれば、フルクサスやハイレッド・センターは、繰り返しになるが遥かに素朴な笑みを湛えている。それは、彼らの行為が、アンチたるべき対象としての「正統なる価値観」と、ある意味では健康的に正面から対峙していたからだろう。かたや我々の時代の今は、無意味な表現の営みを礫としてぶつける対象たる「意味」や「価値」すらも朦朧とした世界で、「結局金がなくちゃ夢なんか意味ないじゃないですか」という人が住む堅牢なバベルの塔の中で、せいぜい「ひきつった笑み」を再生産することのほかになす術がないということか……。
そんなわけで、この <現代アートにみる「おかしみ」の事情> を探る展覧会は、併設された<日本美術が笑う>展を強烈なホリゾントとしながら、
<現代アートにみる「笑えない」事情> を、見事に浮き彫りにすることができた――と、そういう意味で、この二展併設の企画展は、もしかしたら“図らずも”(?)成功を果たしていると言えるわけだ。
極私的補記
その1――
<日本美術が笑う> の会場で、かねてより気になってならなかったあの甲斐庄楠音の作品(「横櫛」)を初めて実見できたことは、誠に僥倖であった。やはりこの作家はただならぬ者であること、それを実作と対面して確信した。この作家の描く女の「幽霊としての(=非存在の)実在感」は、劉生の「デロデロリンの実在感」より、私、慧厳はすごいと思う。
その2――劉生のデロデロリンの実在感といえば、一連の麗子像の中でもっとも強烈に「寒山拾得図」を反映した作品は、なんといってもあの不気味な「野童女」だと断言するが、それが出品されていなかったのはなんとも残念。きっと個人蔵だから借りるの難しかったんだね。
その3――ひきつりまくりの
<笑い展> の中で、あえて触れておきたいのは、シベリア出身の超おバカなパフォーマンス・アート集団ブルー・ノーズだ(写真「おばかさん」、ビデオ「ラップ・ホース」ほか)。ある意味でこいつらこそ「ひきつり」の極みなのだが、そうは言っても、今の世の中でこれだけあっけらかんと完璧に突き抜けたおバカを頑張る表現者とは、あえて言わせて貰えばわが国60年代の反芸術集団どもの愛らしさと素朴さに被るものがある。前世紀のアヴァンギャルドがロシアから開花したように、今世紀も、これ から我々はロシアに注目!なのかもしれない。
その4――もうひとつ付け加えておきたいのは、やっぱり会田誠だ(ビデオ「日本に潜伏中のビン・ラディンと名乗る男からのビデオ」)。あの無邪気な毒は、やはり限りなく無垢に近い。会田誠よ、永遠にビン・ラディンをかくまっておくれ! 酒がなくなったら、そのうち差し入れに行くから。
2007年2月5日号掲載
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