『胡同の理髪師』

人生の終焉を見つめる老理髪師、
失われゆく町並み、生の輝き!


胡同の理髪師

 このコラムに採り上げる作品は、全て私が実際に鑑賞したものばかりです。毎回、新作映画の劇場公開スケジュールを調べ、その中より <心からおすすめしたい作品> を選んで、執筆にとりかかるわけです。そんな中で、今回は鑑賞前から御紹介する作品を決めていました。その作品のポスター・ビジュアルを目にした時に、「これはきっと素晴らしい作品に違いない!」という直感が働いたからです。しかし、その直感が、時に外れてしまうことがあります。その場合、「おすすめレビュー」と銘打っている当コラムで採り上げることは出来なくなってしまいます。読者の方々に嘘をついてしまうことになるからです。万が一、直感が外れてしまったなら、慌てて作品選びからやり直すことになります。その為、今回は「素晴らしい作品に違いない!」という予想と、「もしアテが外れたらどうしよう……」という危惧の両方を胸に抱きながらの鑑賞となりました。ちょっとした綱渡り気分を味わったわけです。

 結果、これが予想以上に素晴らしい作品で、当初の予定通りにその作品を採り上げることにしました。

 今回御紹介するのは、『胡同の理髪師』という中国映画です。「胡同」と書いて「フートン」と読みます。それは、中国・北京の旧城内を中心とした地域の至る所に見られる「細い路地に沿って立ち並ぶ伝統的な建築様式によって建てられた庶民の古い家屋が連なる下町」のことです。現在、胡同は世界的に有名な観光名所となり、連日、多くの観光客が訪れていますが、北京オリンピック開催に向けた再開発の対象地域とされてしまいました。近い将来、胡同の姿は、この世から永久に失われようとしているのです。そういう事情から、近年、胡同を舞台とした作品が幾つか製作されるようになりました。これまでに『胡同愛歌』(2003)や『胡同のひまわり』(2005)といった作品が日本で劇場公開されていますので、御覧になった方もいらっしゃるのではないでしょうか? 今回御紹介する『胡同の理髪師』も、 <失われゆく胡同> を描いた作品です。

 監督は内モンゴル出身のハスチョローという人。 2000年に 『草原の女』(日本未公開)で監督デビューを果たして以来、コンスタントに新作を発表しているようですが、日本で公開されたのは2003年の『紅い鞄 モォトゥオ探検隊』(2007年日本公開)の1本のみ。そのため、一般的な知名度はほとんどありません。こういった <知られざる才能> にいち早く触れ、その存在を御紹介するというのも、実に有意義で楽しいことです。このハスチョローという監督、大変な才能の持ち主ですよ。

胡同の理髪師
 さて、この『胡同の理髪師』。とてもシンプルなストーリーです。

【胡同に暮らす93歳の現役理髪師・チンお爺さんは、毎朝6時に起きる。毎日、決まって5分遅れる時計の針を調整し、身だしなみを整えてから、午前中は馴染みの顧客宅を回り仕事。午後は友人たちとマージャンを楽しみつつ世間話をして、夜の9時には床に就く。そんなチンお爺さんの日常を淡々と描いたヒューマン・ドラマ】

 ただこれだけです。

 しかし、ストーリーはシンプルですが、つくりが非常に変わっているんですね。この作品、一見するとドキュメンタリー作品に見えるのです。というのも、チンお爺さんを演じているのは、本作が映画初出演となるチン・クイという老人。胡同に暮らす93歳の現役理髪師です。そう、映画の設定と全く同じなの。つまり、チン・クイという演技経験ゼロのお爺さんが <自分自身を演じている> わけです。加えて、他の出演者の殆どが、胡同の長屋や老人ホームで暮らす素人の方々。監督がスカウトして、出演してもらったそうなのです。けれど、本作は劇映画ですから、あらかじめ作られたお芝居としての脚本が存在します。かといって、本作は完全なるフィクションの物語でもありません。チン・クイの日常を根幹において、そこにドラマを肉付けしていった感が強いのです。そのため、本作は記録映画と劇映画の境界にあるといって良いでしょう。

胡同の理髪師

 チン・クイは、12歳で理髪師見習を始め、現役生活80年以上という大ベテラン。妻は既に亡く、息子も既に家を出ているため、チンお爺さんは、たった一人で生活をしています。そんな彼の日常を、淡々と、静かに捉えていくだけ。しかし、決まりきった生活のように見えても、一日一日は違うもの。日々の営みの中で起こるちょっとした違いこそがドラマであり、人生というものは、そんな日常の積み重ねによって紡がれる大河ドラマなわけです。本作はその大河ドラマの終盤を切り取った断片のようなものですね。けれど、決して部分的な印象がしません。しっかりと一つの作品としてまとまっています。けれどね、「1人の老人の日常を淡々と捉えた物語」なんて聞くと、なんだか途中で退屈してしまいそうじゃないですか。けれど、そういったこと、全くありませんでした。それは一重に、このチン・クイが持つ素の魅力・人間味の御蔭だと思います。彼の持つ魅力は圧倒的な求心力を持っていて、目が離せないのです。彼の顔に深く刻まれた深い皺の1本1本の美しいこと!! 彼の表情を見ていると、 <美しく老いる> ということに思いを馳せざるを得ません。普段、私たちは <老いること> = <衰えること> だと思い込んでいるのではないでしょうか? しかし、それは違うのだということを、チン・クイの顔面は教えてくれます。皺は、その人間が生きてきた過程を示す年輪なのです。その人の生き方が美しければ、皺も美しく映り、そうでなければ醜く映る。そういった意味で、チン・クイの顔面は芸術品ともいえる美しさを纏っています。だからこそ、目が離せなかったわけですね。

 そんな中で、チンお爺さんは私にとても大事な事を幾つも教えてくれました。ここで、劇中にあるセリフを2つ御紹介しましょう。

【有名人も金持ちも、人生は一度きり】
【人間、死ぬ時も、こざっぱりきれいに逝かないと】

 どうです? 素晴らしい達観でしょう?

 けれど、若者の中には、老人というだけで疎んだり蔑んだりする人もいますし、なんでもかんでも新しい物の方が優れていると勘違いしがちだったりします。…… 本作でも、それを象徴するシーンがあります。チンお爺さんが、毎日5分遅れる時計を修理してもらおうと、時計店に持っていきます。ところが、店主は新しい電気時計の購入をしきりに薦めるばかり。その時計が、この老人にとってどれだけ大事なものであるかということを考えないのです。ここでチンお爺さんがどうしたのかというと、時計を持って無言で店を出るのです。決して、お説教をしたり、激昂したりしません。これは、弱いからではありません。そういう人なのですね。ここには <言ってもわかってもらえない。だから言わない> という達観があります。だからこそ、チンお爺さんの無言に込められた思いが観客には伝わるのです。チンお爺さんは、無言という姿勢で、しっかりと意思表示をしているのですね。

胡同の理髪師
 このチンお爺さんが大事にしている時計は、本作においてとても重要な小道具です。古くなったからといって、修理を試みず、新しいものと取り替えることでよしとする時計店主は、現代に生きる我々の象徴ではないでしょうか? そして、この時計は、チンお爺さんや、胡同の街並みを示しているのではないでしょうか?

 チンお爺さんの、人生という名の大河ドラマは、近い将来、 <死> という結末を迎えます。 <死> は誰にでも訪れる不可避なものですから。そして、胡同もまた、近い将来、再開発によって、この世から消え去っていく運命にあります。しかし、ジタバタしません。自然体です。死が訪れるその日まで、チンお爺さんは変わることなく日々を暮らし、胡同の街並みもまた、ただそこに在り続けることでしょう。いつもと同じ。何も変わらない。変わっていくのは時代なのです。けれど、時代に責任があるわけじゃない。チンお爺さんも胡同も、「古い物は醜い」だとか「不便だ」とする人々に抗ったりしません。その無言の潔さと気高さがとても印象的でした。その無言が我々に教えてくれるのは、とても大切なものです。

 今日も、チンお爺さんは三輪車に乗って、胡同の細い路地を行き交います。私には、胡同の路地が血管で、チンお爺さんが血液であるように思えました。街があり、そこに人間がいる。何年も、何十年も、時には何百年も、街と人間は一心同体。そういった営みが歴史を作っていくのです。そういった部分が実にしっかりと描かれた傑作。それが『胡同の理髪師』です。1人でも多くの方に御覧頂きたいと思います。

 それではまた、劇場でお逢いしましょう!!

胡同の理髪師 http://futon-movie.com/

 人生、日々是好日

2006 剃頭匠 THE OLD BARBER 105分 中国?
監督:ハスチョロー 脚本:ラン・ピン 撮影:ハイ・タオ 美術:ジン・ヤン 作曲:チャ・カン 録音:リ・ジュジョン 出演:チン・クイ/チャン・ヤオシンワン・ホンタオ/ワン・シャン

2月9日より、東京:岩波ホールにて上映中
3月1日より、愛知:名古屋・名演小劇場にてロードショー
3月8日より、大阪:十三第七藝術劇場&シネマート心斎橋にてロードショー
3月29日より、京都シネマにてロードショー
3月中、兵庫:シネ・リーブル神戸にてモーニングショー
その他、全国順次公開予定

2008年2月11日号掲載
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