東野圭吾の『秘密』は、リドル・ストリーになっているということで話題になっていた。今年40歳になる工員の平介は、妻子の同乗していたスキーバスが転落事故に巻き込まれ、妻の直子は死亡し、娘の藻奈美は意識不明に陥る。藻奈美は奇跡的に意識を回復するのだが、しかし回復したその精神は妻・直子のものだったというミステリー小説だ。物語の最後をどう読むかということが話題になっていたのだけれど、小説に対する話題もひととおり落ち着いて、秋には広末涼子で映画化されるというタイミングに、僕なりに解釈をしてみよう。以下には、いわゆるネタバレが含まれるので、まだ原作を読んでいなくてこれから読もうと思っている人、あるいは映画を見ようという人は、読み進まない方がいいかもしれない。
そもそもいったい何が「秘密」であるのかといって、まず娘・藻奈美の体に死んだはずの妻・直子の精神が宿ったということが二人だけの秘密として世間には隠されている。好奇の目にさらされて暮らすよりは、その方が生きやすいだろうからという理由は納得できるものだ。しかし、この小説のタイトルに込められた一番大きな「秘密」は、最後に藻奈美の体に宿っている精神が本当に、藻奈美自身のものなのか、あるいは直子のものなのかという点で、そこを巡ってそのどちらとしても読むことができるリドル・ストリーになっているという評価があったという訳だ。
お話が後半部にいたって、直子が占有していたと思われていた藻奈美の肉体に、藻奈美の精神が少しずつ戻ってくるということが起こる。それはちょうど多重人格者の生活のように、ある時間帯には完全に藻奈美の精神が直子の精神に取って代わっていて、藻奈美の時間が少しずつ直子の時間よりも増えていき、ついには藻奈美の精神が完全に入れ替わってしまう。平介の直子との最後のお別
れの時は(二度目のしかし本当のお別れと思われたのだけれど)ドラマチックなシチュエーションになっている。
いずれにせよ受け入れがたいような不可思議な事態だ。この不思議な事態を受け入れられるようにするために、平介は図書館で同じ様な事件が起きていないか本を調べてみる。平介が手に取ったのは『超常現象の事典』という本だ。その中で「憑依」という項目を読み、次に「多重人格」という項目を読んで、藻奈美に起きている事柄がこれだと確信する。そこに書かれているのはこういう事態だ。「それは一九五四年、ジャスビール・ラル・ジャットという少年の身に起こった。彼は天然痘でいったんは死亡したと思われたが、奇跡的に生き返った。ところが彼の人格は全く別
人のものになっていた。じつはほぼ同時点で死亡した、バラモン階級の少年の霊に乗り移られていたようなのだ。ジャスビール少年は、死んだ少年に関することを熟知していた。その状態が二年続いた後、彼の本当の人格が戻ったらしい。」
この様に了解されたから、その後の話の展開を読者も、また平介と直子も当然のことのように辿ることができる。つまり、ここで起こっているのは、藻奈美の身体に直子の霊が憑依しているという事態であり、時間を経て藻奈美の精神が戻り、そしてついには直子が姿を消して、藻奈美に戻るという展開だ。
完全に藻奈美に戻ってから、藻奈美は、起こった事件が憑依ですらなく、単純な多重人格の事例であって、本当に直子が現れたのではなく、一時的に藻奈美の精神が直子の人格を生きていただけなのだと了解するように描かれている。平介は、しかしあれは真正の直子であったと確信している。藻奈美は自分の人生を、いまではごく普通
に生きて、そして遂に結婚する日が来た。しかし、結婚式の当日、今や藻奈美となって生きているのが、実は今でも本当は直子なのだと平介が確信するに至るのは、平介と直子の間の二人だけの「秘密」であった二人の結婚指輪(その指輪は藻奈美のぬ
いぐるみの中に縫い込まれて、大事にしまわれていた)を、藻奈美が内緒で、自分の結婚指輪に直していたことをたまたま知ってしまったことによる。藻奈美が指輪の秘密を知っているはずはない、だからあれは藻奈美ではなく、直子自身なのだと。
したがって、タイトルとなっている「秘密」の由来はまずもってこの指輪であるということができる。それが二人の秘密だから藻奈美が知っているはずがなくて、だからそれは直子であるという論理展開はすぐには理解できないが、仮に藻奈美が直子からそのことを聞いていたとすれば、平介にも話をしていただろうということは分からないでもない。だとすれば、平介に内緒でその指輪を作り直して新しい結婚指輪にしようとした直子の心理とは何だろう。新しい結婚指輪としてそれをはめることによって、平介には内緒のままにいまでも心の中では平介の妻である自分の気持ちを形にしておこうとでも思ったのだろうか。しかしそれが大切な「秘密」の指輪であるなら、いずれその在処は問題になるだろう。もし、いずれ直子が藻奈美であることが知れることを直子が予感していたとするなら、指輪のことは平介にとって救いであるだろうか。それともさらなる苦しみの元であるだろうか。本当は、藻奈美が直子自身であることを悟らせるようなことは決してするべきではなく、藻奈美は直子から指輪のことを聞いたと話した上で、それを自分の新しい指輪にさせてもらうべきだったのではないか。
この作品がリドル・ストリーではないかと話題になった後で、作者本人に意図を聞いてみた内容からしても、この小説が字義的に語っているのは、直子は藻奈美であったというストーリーであることは間違いがない。作者はこの小説のことを「ひとことでいえば、恋愛小説です。人と人とがかかわりあう時、見返りを気にせずにその人に何ができるか、ということを書きたかった」と言っている。誰と誰との恋愛小説か。もちろん平介と直子である。夫婦であったら二人は新しい状況に放り込まれる。それは伴侶である直子が新しい人生を与えられるという状況だ。この小説の妙は、中年の妻であった直子がこれから青春を迎える若い肉体を持った時に、精神がもとのままでも、以前の二人のままではいられないという新奇な状況を描き出しているところにある。精神が同じであっても、肉体が異なるときに、それは異なる人生を生きざるをえない。その時、もとの人生をパートナーとして生きてきたものがどう振る舞えるのか。ここで起きているのは、愛するものを失うという喪失の事態であり、愛するものが自分とは違う人生を生きるという失恋の事態である。
したがって、この小説はリドル・ストーリーではない。にも関わらずこの小説の結末をどう読むかということが話題になったのは、藻奈美がやっぱり藻奈美であるのかも知れないという含みを持たせた方が、小説にいろいろな膨らみが残るという思いを多くの人が抱くだろうからだし、生半可に事実を知らせても平介をだまし通
そうとする直子の行いが、いくらそれが唯一の選択肢であるとしても、平介に酷でありすぎるのではないかと誰しもが感じるからでもあるだろう(結果
的に浮かび上がる、娘・藻奈美は結局蘇ることはなかったのだという事実も、加えて過酷であるだろう。逆にいえば、直子は失った藻奈美を蘇らせてまで平介を欺こうとしたのだ)。話の展開が途中まではいかにも藻奈美が「憑依」と「多重人格」が重なったような症例であるかのように進みながら、最後の最後でどんでん返しになるというのも、やや安易であると印象を与えている。直子がそのような事態を自然に信じるということも不自然であるといえば不自然であって、逆にいえば直子の演技を平介が信じる根拠が希薄でもあり、それを成り立たせるためには「憑依」プラス「多重人格」という設定が、読者と登場人物とを二重に騙していたことになる。
設定の安易さ(ご都合主義)が小説の価値を貶めるかどうかは、それによって描き出された事件が真実を描いているかどうかということによるだろう。この小説の価値は、繰り返しになるが、愛しあう二人の間に起きた新しい事態にあり、そこには精神と肉体(性)の問題が塗り混まれている。その意味で、この小説の真の評価は、この評論にふれられていない部分の描写
の中に求められるべきだ。したがって最終的にそれをどう評価するかは、読者にゆだねることにしよう。最後に至極簡単に僕の感想を言えば、直子は平介に新しい人生を生きることを告げて平介と別
れるべきであったのであり、ここでの平介と読者に対する直子のトリック(したがって作者自身のそれ)は、かえって不必要に人を傷つけていると思う。
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まだいまだ「『秘密』について」
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