古今漫画夢現-text/マツモト

はじめまして。この連載では、私のアンテナに引っかかったマンガを、自分の妄想、夢と合わせて紹介していきます。どうぞよろしくお願いします。

吾妻ひでお『 失踪日記 』

骨身にこたえる <すぐそこにある非日常>

今年度からちょっと立場が変わり、いまだ学生であるぼくの周りも慌ただしくなった。なかなか環境に慣れないのもあって、ちょっと気が滅入ることもある。雨も降り始めたそんな6月の夜、初めて『失踪日記』を手に取った。吾妻ひでおが星雲賞を受賞した3年前、なぜタイトルからしてSFでもなさそうなのにこの作品が?といぶかって手を出さなかったのだが、もしかするとあれはそういう時期だったのかもしれない(というか実は単なる勘違いで、「日本SF大会星雲賞ノンフィクション部門」がなるものがあったのを後で知ったという始末だ)。何かと自分の後先ままならぬ立場をやっと自覚してきた今、特に吾妻ひでおのこの作品は骨身に応える。

『失踪日記』は、作者の失踪以降の放浪やアル中で入院したことなどの非日常体験記だ。放浪やアル中入院など大半の人があまり体験することのない世界が、デフォルメされた絵柄で赤裸々に描かれている。これがまたリアルなうえ、自分にとってはやたら重かった。もちろん重い作品なんて他にもいろいろあるのだが、この作品はちょっと違った重さやそれで終わらせない空気がある。「へーそうなんだー」と笑ってすまされないような微妙に身近な自分の立場というか、そういう意味であとになってジワジワと迫ってくる感じがする。絵柄がコミカルで取っ付きやすい感じがあるのも、注目すべきポイントだ。もちろん、例えばねこぢるや唐沢なをきのマンガのキャラクターだって丸っこくて可愛らしい絵柄で結構な毒を吐いたりするけども、そういったものともまた違う。少なくとも上に挙げた2人の作品の場合、作者自身の属する世界が非日常的なものになっていて、いわゆる日常と非日常との境界線が比較的はっきりしている。

彼らの作品に登場するコミカルな姿形のキャラクターは、その境界線の線引きに 一役買っているという感じもある。だけど、吾妻氏の描く絵はそれとは逆の効果がある。つまりコミカルな絵柄が線引きをするのではなく、作者の非日常的で異常な体験を、現実の生々しさや凄絶さを和らげた感じにして読者に示されているということだ。このことは、本人が「自分を第三者の視点で見るのは、お笑いの基本ですからね」と『失踪日記』の巻末対談でも述べている。

そう、このマンガは、たとえて言えばくずまんじゅうに似ている。くずまんじゅうのくずを透してあんこが見えるように、現実の生々しさを優しくデフォルメでくるんだ、見た目からもその食感も不思議な魅力を持った作品なのだと思う。

たいてい日常の「裏側」として語られた物語、非日常ワールドは、時として正視できないほどのおぞましさを増すこともできるし、それによって読者をそっぽ向けさせることだってできる(上に挙げたねこぢるや唐沢なをき然り)。でも『失踪日記』は、日常と非日常が均質に描かれていて、もはやどっちがどっちだか分からなくなっている。この吾妻氏の手腕のおかげで、読者はここに描かれていることを他人事と笑い飛ばそうと自分の事のように深刻に考えこもうと、その受け取り方は自由なのだと感じることができるように思う。でも実際に『失踪日記』を読んだ方々の中は、笑い飛ばしてしまいたいのだけど、どうしても目が離せなくなっていつの間にか軽くダウナーに入ってしまう人が少し多かったのではないか、とも想像される。

たとえば身の上話をしている人がいて、別にこれといって露悪的ないやらしさがない。むしろネタという感じで笑って話しているんだけど、それが妙に生々しかったり重かったりすることが後で分かると、初めの取っ掛かりですんなり入ってしまった分だけ、こっちがダメージ喰らってしまったなんて経験がないだろうか。

また、<非日常←→日常> という過程がはっきりと描かれていることも、この作品の魅力の一つだろう。いつか自分もこの道にドロップアウトしてしまうんじゃないか…そんなシャレにもならないような予感さえもやたらリアルになってくる。いまだに学生やってる身としては、十分あり得る話だ。

コミカルさというフィルターが時間をかけてそろそろと剥がれてきたとき、ふと「あ、俺あと一歩じゃないか」と気づくのだ。でもこの感じは嫌いではない。どれだけエンタテインメントに仕上げていても、地に足付いている感じがこのマンガにはある。不思議に安堵するのだ。ファンタジーに浸るのもいいが、こうやって今自分の近く、すぐそこに、入口も出口もなく非日常が違和感なく横たわっているということを知らしめてくれるという意味で、とても読む価値のあるものだと思う。

遅ればせながら、ぼくもこの微妙なバランスに支えられた本作から吾妻ファンになりそうな予感がする。

2008年6月16日号掲載 このエントリーをはてなブックマーク

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w r i t e r  p r o f i l e
吾妻ひでお『失踪日記』P.50
吾妻ひでお『失踪日記』(イースト・プレス社)P.50
カバーにもなっている一コマ。普段ならまずないであろう視点からの雪景色が幻想的でとても印象深い。
吾妻ひでお『失踪日記』P.152
同P.152
アル中で幻覚を見る作者。只事でない状態への移行が淡々と描かれており、ズレているのかどうか分からないところが余計に怖い。
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