末っ子だからなのか、いまだに幼児的な固着が残る三番目の子は、ほかにもくまが描かれた絵本は何冊もあるのに、なぜかこの本のくまでなければけっして満足しないのだった。
5冊の本のくまは、どう見てもぬいぐるみ、というかテディベアそのもののように見える。「せきたんやのくまさん」の原題は
「TEDDY BEAR COLE-MAN 」だからそれでいいのであり、だから「くま」ではなく「くまさん」なのだ。
くまさんは、とにかくこつこつまじめに働いている。どのお話も、それぞれのくまさんの一日を描いており、その選ばれた任意の一日が、何年も前から続いてきたものであり、そしてこの先何年も続いていくだろうものであることは疑いようもない。ままごとの始まりのように、最初のページはいつもくまさんの持ち物紹介から始まる。
あるところに、せきたんやのくまさんが、たったひとりですんでいました。くまさんは、うまと、にばしゃと、せきたんのはいったちいさいふくろを、たくさんもっていました。(「せきたんやのくまさん」)
パン屋であれば「パンをうるみせと、くるまを1だい」だし、郵便屋なら「バッジのついたぼうしと、てがみやはがきをいれるかばん」、植木屋なら「スコップとくまでと、ちいさなあかいておしぐるま」、牧場の農夫なら「トラクターを1だい」をもっている。
最後の本では、ぬいぐるみのくせになんと家政婦を雇っているくまさんは、もはや老境の域に達しているように見える(家政婦のマフェットさんのほうがくまさんのぬ
いぐるみを所有しているとは見えないのは、長靴を履いたくまさんが、そこはかとない頑固な老人の空気を漂わせているからだ)。ちなみに、「うえきやのくまさん」では、くまさんは(文字では説明されないが)白い猫と暮らしているようだ。
くまさんの朝は早く(ただし「にちようとおやすみのひ」以外)、「ゆうびんやのくまさん」では降雪の中をケープを羽織って配達自転車を漕いでいたりして、仕事はけっこうハードそうだ(イギリスの労働ってどうしてこんなにハードそうなのか、きっと労働者階級の誕生と関係があるのだろう)。なぜ雪が降っているのかというと、それはクリスマスイヴだからで、クリスマスカードやプレゼントを配達するくまさんはどの家でも歓迎され、クリスマス・パイとジンジャー・エールを勧められたりする。仕事を終えて帰ったくまさんは、「あたたかいおふろ」で一日の疲れを癒した後で、その日の至福の時間を過ごす。
だんろのまえでばんごはんをたべながら、くまさんは、「ぼくにきた こづつみには、なにがはいっているのかな」と、かんがえました。
リボンをかけられ、「くまさんへ」「くまさんへ愛をこめて」「大好きなくまさんへ」などのカードが添えられたプレゼントが、きちんと飾りつけられたクリスマスツリーの根元に、
暖炉の上には 「パーティにきてください ジャンとアンナより」などと書かれたクリスマスカードが何枚か見える。くまさんはその中のひとつを手にとってじっとみつめているが、結局、包みを開けることなく(まだイヴの夜だから?)、2階に上がると、小さなベッドにもぐりこんでぐっすり眠ってしまい、そして、お話は終わる。「これが、ゆうびんやのくまさんのおはなしです。」
「せきたんやのくまさん」でも、石炭屋が忙しいのだからやはり冬なのだろう、やはり暖炉の前に座り、眠くなるまで、お茶を飲みながら絵本を眺めている。それから小さなあくびをして、ねまきに着替えてぐっすり眠ってしまうのである。
くまさんのまじめ一辺倒な生活ぶりは、この絵本の印象そのものであるといえる。教科書のような奇妙な端正さできっちりと描かれた水彩
の街並み、花壇、店や部屋の調度、大人や子供の姿。
生活の中から生まれてくるリズミカルな単調さは、実際の音として描かれる。石炭屋では石炭を投げ込む「どかん!どかん!」、郵便屋では郵便物にはんこを押す「ばんばんばん!」、パン屋では生地を練る「どさっ
どさっ どさっ!」、 植木屋ではもちろん垣根を刈り込む「ちょきん ちょきん
ちょきん!」、そして牧場では牛の乳を搾る「シュッ
シュッ! シュッシュッ!」という音がくまさんの労働にあわせて奏でられ、人々がその代金としてくまさんに渡すコインの勘定(「1こ、2こ!
1こ、2こ、3こ!」)も単調なリズムとなる。
おそらく、幼児性に固着を残す三番目の子は、この単調さにこそ惹かれているのだと思う。年端もゆかぬ
子供が労働と生活の単調さに魅入られることになにか奇妙な皮肉さを感じるかもしれないが、思い返せば、イギリスの物語世界においては、子供たちはいつもそのように労働を学んできたのではないか。
(「パンや」「せきたんや」フィービとセルビ・ウォージントン作・絵他はフィービとジョーン・ウォージントン、「せきたんや」のみ石井桃子訳・他は間崎ルリ子訳、「ぼくじょう」のみ童話社、他は福音館)