ぼくの第2詩集がこのたび上梓されました。そこで今回はちょっと自分の詩集についてあれこれ書かせていただこうと思います。宣伝を兼ねて。
題名は『リーヴズ Leaves』。版元は思潮社です。定価は2200円+税となっています。全国の書店から注文できますのでよろしかったらお求め下さい。できれば幅広く読者を求めたいと思っているのです。なぜなら詩人どうしで買い求めていてもしょうがないと思うからです。しかし詩の市場というものはほとんどないに等しいので、詩人どうしで読んでいるというのが大方の現状となっています。すると、お互いの批評が専門的になりすぎる。ますます狭いサークルの外からの読者が入りにくくなる、そんな悪循環があるようにも見えます。まるで高校生の文化祭だと言ったら言い過ぎでしょうか。高校生の文化祭って自分たちで作って同じ学校の生徒がそれを食べているっていう感じがするので連想してしまったのですが。
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ところで、出版社の方で付けてくれた帯はこうなっています。
「子どもの頃はカスミ網を張った/細い網糸を空に張り渡すと/野の風が網目で光ったものだ」
柔軟な呼吸づかいで詩人は思いをかけるのだ。「向こうの空には/視えない理が張り巡らされ」ている。見えないものを見る詩人の感受性が時空を越える。
もちろん子どもの頃にカスミ網を張ったなどというのは嘘です。
カスミ網とは細い糸で作られた網のことでこれを張って鳥を捕まえるのですが、無作為に鳥は引っかかって、捕獲が禁止されている鳥までかかってしまうので、現在は鳥獣保護法によって禁止されています。しかし昭和20年代までは確かにカスミ網を使用していたようです。ぼくが子どもの頃、以前使っていたカスミ網が倉庫からでてきたのでそれを父が広げて見せてくれたことがあります。細くて柔らかい糸で出来た網を広げてみると確かにちょっと見には見えない網の目なのです。その記憶があったのでそれを元に上のような詩行が出てきたのです。
いずれにせよこのように作品にはフィクションが付き物ですが、前詩集でも「明春はわたくし方 母の喪中につき 新年の祝詞は遠慮させていただきます」と書いたら、ある人から「この詩集は亡きお母様への鎮魂の書…」というようなことを言われてとても恐縮したことがありました。母はまだピンピンしていて、元気に仕事などしております。すみません。
「春の星座」という詩に娘が出てきます。うちには娘が二人いますが、下の娘が「これ、私、それともお姉ちゃんのこと?」と聞きます。さあてなあ。どちらだったかなあ。もう前のことだから忘れてしまったなあと言うと、ふうん。じゃあ、線路のすぐそばに住んでいた頃ってあるけど、お父さん、そんなところに住んでたことあるの?「えっ、ああ、これは嘘だ。大学生の頃アパートを探していて線路のすぐそばにあるアパートを見に行ったことがあるけど、電車の音がうるさくて借りるのをやめたことならあるけど」と答えると、「お父さん、嘘ばっかじゃん」。だってそれが作品ってもんでしょう。作品の中に出てくる「私」は、カッコ付きの「私」であって、それが作者と同一でなければならないということはないのであって…おいおい、子ども相手に何ムキになっているんだ。
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今回も装丁には気を遣いました。印刷は活版です。現在活版で印刷している出版物は詩集くらいしかなくなってしまいました。しかし少部数の詩集だからこそその手のことが出来るということがあります。詩集は少部数だからこそオブジェとしての書籍という側面が強調できると思っています。
表紙も写真家の斎藤さだむ氏の写真をお借りして良いものが出来たと思っています。
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作品集を作る時にはその時のピークで作ることになりますので、この時点ではこれが自分の精一杯だと思って作ります。前詩集の時にも、果たしてこれ以上のものを今後書けるだろうかなどと思ったことを思い出します。しかし今、前の詩集を見直すと粗ばかりが見えます。この程度のものでオレはあのときに満足していたのか、オレって馬鹿じゃなかろうかという気持ちになります。
まあそういうふうに思えるようなところまで来たからこそ、次の詩集を出せるのでしょうね。そんなことの繰り返しなのだろうなと思いつつ、自分の詩集を手にしています。
どうかご贔屓に。
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