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2000年に発行され、2001年9月11日後の世界を予測したかのような記述が話題となった『帝国』の著者、マイケル・ハートとアントニオ・ネグリの新著『マルチチュード』がこの夏に発行されようとしている。『帝国』は昨年日本でも発刊されて一部で話題となった(『<帝国>』、以文社)が、『マルチチュード』の翻訳も既に進んでおり、アメリカでの発刊にそう遅れずに日本でも読むことができそうだ。 『マルチチュード』は『帝国』の続編として書かれている。『帝国』は新しく生まれた今日の主権(権力)のグローバルな形態を分析していたが、この新しい主権(権力)は、国民国家が諸外国を侵略して拡張していく近代の「帝国主義」とは区別されて「帝国」と呼ばれていたのである。『マルチチュード』は、「帝国」の中で生まれ、「帝国」に抗してオルタナティブを提供する新しい主体(マルチチュード=多数者、群衆)を描こうとしているが、その前提として、今日の状況、今日の世界的な戦争状態の分析からはじめなければいけないと、ハートとネグリはその序文に書いている。 現代世界において、戦争は恒常的な存在となりつつある。戦争は「例外状況」ではなくなり、そして戦争の暴力と脅威は、日常生活や権力の通常の機能にまで浸透して、バイオパワー(生−権力)となっていると彼らは書く。彼らの文章の一部を(入手した草稿から)以下に試みに訳出してみよう。 バイオパワー(生−権力)は、生命の大量破壊(核兵器の脅威のような)ばかりではなく、個人化された(個人への)暴力としても行使される。この個人化が極限の形態をとった時、バイオパワーは拷問となる。こうした権力の個人化された実行は、ジョージ・オーウェルの『1984』で描かれたコントロール社会の中心的な要素である。「ウィンストン君、いかにして人は他者への権力を行使するのかね?」「苦しめることによってです。」「よろしい。苦しめることによってだ。服従させるだけでは充分ではない。」拷問は、今日、かつてよりさらに一般化されたコントロールの技術となり、同時に、ますますありふれたものとなっている。肉体的、精神的苦痛によって告白や情報を手に入れる方法、囚人の(睡眠の剥奪などによる)精神錯乱の技術、(裸にしての検査など)単純な方法による屈辱などが、拷問の現代的な武器庫における一般的な武器である。拷問は、政治活動と戦争が接触する中心点である。政治的な予防として用いられる拷問の技術は軍事活動のすべての特徴を帯びている。これもまた「例外状況」と、政治権力が法の支配から逃れる傾向の別の側面である。事実、拷問を禁ずる国際協定や残酷で異常な懲罰を禁ずる国内法が効果をもたないケースはますます増えているのである。独裁国と自由な民主国の両方が拷問を用いている。一方は使命として、他方はいわゆる必要性から。「例外状況」の論理にしたがえば、拷問は不可欠で、避け難く、正当化できる権力技術なのである。 2004年にイラクで明るみに出された拷問収容所の存在が、バイオパワーのあり方の一端を証明している。
2004年6月28日号掲載 |
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