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けっして格好良すぎる辞め際と、その後の今期の乗り切れない阪神の成績から星野元監督を許さないといっているわけでない。星野元監督を許さないというのは、彼が暴力監督だからだ。暴力監督としての彼を批判する声が、少ないわけではない。例えばスポーツライターの武田薫、マーティ・キーナート、小説家の大西赤人などである。2000年5月6日、当時まだ古巣中日の監督であった星野は、ナゴヤドームで行われた中日−横浜戦で、立浪和義内野手、大西崇之外野手とともに判定をもとにセ・リーグの橘高淳審判員に暴行を加え、負傷させた。星野監督は謝罪会見を行ったが、悪いのは審判の判定で、まじめに反省しての会見ではなかったと多くが証言している。古い話を持ち出すというかもしれないし、星野氏もソフトになったという人もいるかもしれない。しかし現在まで、寡聞にして彼が一連の態度に真剣な反省を行ったとは聞かない。 プロ野球の審判がお粗末すぎるというのは、彼の持論かもしれない。しかしそれは別に解決すべき問題であり、彼であればそれに手を付けることも出来なくはないだろう。もし、審判の判定が悪いから、審判に手を出すことが許されるなら、イラクが悪いからイラクに戦争をしかけることも許されることになるだろう。なるほど、この対比にはいびつなものを感じるかもしれない。しかし何がいびつなのかを考えてみることに意味はある。「近代」という時代は、手順の正当性を、善悪の上位においた。いかに近代の黄昏といえども、近代が多くの血を注いで勝ち取ってきたものの価値を容易く手放すいわれはない。 2004年5月31日号掲載 |
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