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イチローは偉い。なにが凄いといって、この局面において国民栄誉賞を辞退したその運動神経がすばらしい。
表向きの辞退理由がどうあれ、イチローが本能的にその受賞の政治的な意味を嫌ったことは間違いないだろう。パフォーマンスの人である小泉純一郎は、ブッシュ・ジュニアとキャッチボールをして見せた人である。イチローは、それらのパフォーマンスが、野球やベースボールの唯物論的な「美」を、本質において愚弄するものであることを察知しているのだ。
イチローは、唯物論主義者である。イチローはあらゆる「タイトル」を問題としない。問題は、スタジオにおいて、白球とゲームの流れの中において、自らがどのような運動軌跡を描きえたかに限定される。「タイトル」は、それらの結果が、凝固した惰性態であるにすぎない。
小泉純一郎のパフォーマンスは、日本の政治をポストモダン的段階に引き入れた。それはアメリカにおいてベトナム戦争とウォーターゲート事件後に進展し、クリントンが確立させたものだ(「ポストモダンとしてのクリントン」中野博文『大航海』No.35)。クリントン政権において、支持政党と与党がねじれ現象を起こしていたように、小泉政権の基盤は、政党や派閥以前にその支持率に依存している。それを生み出しているのは、彼のパフォーマンスである。
ブッシュ・ジュニアが行っていることもパフォーマンスである。彼は「テロ」を「戦争」と呼び、戦後の国際関係についてのビジョンも定かならぬままに、実質的な戦果も当てにならない戦闘に走った。ブッシュは、今回は国連を当てにすることも避けて、一国主義に閉じこもって戦闘を開始した。ブッシュ・ジュニアは、これをあえてアメリカという「国家」に向けての戦争と捉えて、その戦闘行為を行っている。ブッシュが各国に強要しているのは、国際的な承認ではなく、アメリカという一国家への信任である。
今回のテロは、WTCとペンタゴンへ向けて行われた。これを「金融」と「軍事」を中心としたグローバリゼーションに対する戦いであると見ることはたやすい。しかし、それ以前に、そこに起こっているのは、コンクリートと金属の焼きただれた何万トンもの残骸と何千人という市民の屍であり、そして、同様のことは、その何倍、何十倍の規模で、いまも、世界のそこここで生起している。
小泉純一郎やブッシュが行っているのは、故意の「タイトル」付けである。そしてそうした「タイトル」は、現実に生起していることを正確に把握しているとは限らない。われわれは、唯物論主義者として、そこに生起している事件にこそ反応する運動神経を鍛えなくてはならない。
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