ハーバーマスによれば、
「労働力の商品化という現象において、経済的に有意味な行為が生活世界の文脈から切り離され、交換価値(貨幣)というメディアに結びつけられる。ここに、それまでとは違った行為調整のメカニズムが登場しているわけだが、このメカニズムは行為者(賃労働者)に対して外的なものとして出会われる。賃労働者はその全生存を市場に依存することになり、匿名の価値づけ(換金)過程がかれの生活世界に介入してくる。これはマルクスが「即物化」と読んだものだ。」(『ハーバーマス コミュニケーション行為』現代思想の冒険者たち27 中岡成文著 講談社)
ハーバーマスも、経済システムが生活世界を侵犯してくるという点では、この事態を批判的に捉えるだろう。しかしハーバーマスによれば、マルクスが疎外論や物象化論として捉えたこの「生活世界の合理化」自体には、評価すべき側面もあることになる。
「伝統的な生活形態が抑圧的に根絶され、手工業者や農民がプロレタリアート化するとき、マルクスはそこに物象化の局面しか見ないが、ハーバーマスはそれとならんで「生活世界の構造的分化」という前進的契機をも認める。およそ近代における文化・社会・人格の分離が与える「苦痛」は、必然的な「個別化」の過程の産物であって、ヘーゲルやマルクスが考えたような疎外に帰せられるべきではない。前近代を郷愁とともに哀惜するという後ろ向きの態度を、ハーバーマスは明快に断罪する。マルクスにおいてこのように「歴史的指標」が乱れていることに関連して、次の指摘がなされる。つまり、労働力の商品化という資本主義の過程において、賃労働者は自分の全的な「生命の可能性」の一部を即物化された「力」として切り売りしなければならない、それこそ疎外だとマルクスはいうのだが、、そのさい、守るべき正義の前提となっている「生命」とは何なのか。生命の概念に関してマルクスは、哲学的にはアリストテレスとヘーゲルの間を行ったり来たりしているが、歴史的な具体性を欠き、あいまいなままにとどまっている。」(同前)
それでも我々は、ボーナスの考課の時期ともなると、評価されるなり、評価するなり、自分たちの行為がBやB’やDといった記号に還元され、それによって生活の元手となる所得が決定されてしまうことに釈然としないものを感じざるをえない。いったいぜんたいどうしてこんな事になってしまったのか、その元をたどって、マルクスは価値形態論を書いたのであるらしいが、そこでは「貨幣」というものが、根源的な謎として提示されているようだ。なるほど貨幣は、この手垢のついた愛読書や、子どもの飼っているカブトムシに、価格という数字を与えるのだから。
数字とはいったい何であるのか。しかし、これ以上のことをいま書くことはできない。
そこで唐突に井上陽水の「傘がない」のことを思い出す。1994年1月4日号の「週刊金水」にはこう書かれている。
1970年代始めに発表された井上陽水の「傘がない」には、都会では自殺者が増え、テレビでは誰かがわが国の将来について深刻な顔をして話しているけれど、問題は今日の雨に傘がないことだ。君に会いに行かなくちゃ。雨に濡れて。冷たい雨が心に染みて、君のことしか考えられなくなる。それは、良いことだろう?と、歌われている。
1994年1月3日付の朝日新聞には、総務庁が発表した「世界青年意識調査」で、「社会に不満を持つ人が半数を超えているが、社会を変えようという意欲は諸外国に比べて乏しく、冷めている」という日本の若者の傾向が浮き彫りになったと伝えている。社会への満足度はこれまでの調査で満足度が増える傾向が続き、5年前の前回の調査では過半数を超えたが、今回は「不満」が逆転して過半数を超えた。不満を持ったときの態度は「積極的な行動はとらない」が増えて過半数を超え、「かかわり合いを持たない」も増えて20%に。「積極的行動は取らない」理由は、「個人の力では及ばぬ」が68%で一番多く、次いで「自分にとって、もっと大切なことがある」が20%だったと。
井上陽水の「傘がない」という曲を、妻は「自分にとって、もっと大切なのは君だ」という愛の歌だと解釈する。もちろんこの解釈に間違いはないだろう。しかし何故か、それだけではないはずだという不満が残る。井上陽水はいわゆる全共闘世代の少し後に生まれ、吉田拓郎や岡林信康等につづく第二世代と位置づけられる。「傘がない」の収められたアルバム『断絶』が発表された1970年代の始めには学生運動は終息しており、この歌自体に政治や社会活動といったものに対してどこか冷めたものがあることは間違いなかろう。しかし、君のことしか考えられなくなることを、わざわざそれは良いことだろう?と尋ねるのは、もしかしたら反語であり、君がそれを望んではいないかも知れないといった余韻を残しているような気がする。加えて、大文字の抽象的で形而上学的な理念の世界に対比するに、傘がないといった極々卑近な日常的以下の事柄を持ってくるところに、実存的なと呼んでみたい気もする戦略性を感じないでもない。いずれにせよ、ただひとつはっきりとしていることは、この歌にメッセージされていることは、今となっては余りに当り前で、歌にもならなかっただろうということだ。
1999年8月7日付の朝日新聞は、男性の平均寿命が前年を0.03歳下回り、77.16歳になったことを伝えている。「日本人の平均寿命は、男女とも戦後からほぼ一貫して上昇。最近では、阪神大震災のあった九五年に一度前年を下回ったものの、その後は再び上昇していた。」「男性の平均寿命が九七年を下回ったのは、他に原因が見あたらないことから、男性の自殺者が前年より約六千五百人も多い過去最高の二万二千三百三十八人だった(厚生省の人口動態統計)ことが最大の理由とみられる。自殺者は四十代から六十代が多く、不況の影響が指摘されている。警察庁のまとめでも、四、五十代を中心とした「生活・経済問題」が原因の自殺は、前年より七割も増えている。」
東京の友人の話では、都内のJRのプラットフォームからの飛び込み自殺が後を絶たないため、最近ではかならず何人かの職員がプラットフォームに立つようになったという話だ。
井上陽水の「傘がない」がまた流行っているという話を聞いた。
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