ポストモダントとしてのエコロジー
一九九八年五月二十八日、パキンスタンはインドに対抗して地下核実験を実行した。パキスタンはこの実験によって地球上でインドに次ぐ第七番目の核保有国と見なされ、今後この動きがさらに他の中東のイスラム国などに波及していくことが危惧されている。
一九八六年にチェルノブイリで原発事故が発生し、その数日後、日本の新聞は事故による汚染物質が日本の上空に飛来したことを報じた。チェルノブイリとはロシア語で「にがよもぎ」を意味する。にがよもぎといえば、世界の終末を予言した新約聖書、ヨハネ黙示録にでてくる不吉な草として有名である。『視る男』(1985)のアルベルト・モラビアは、聖書のその部分に核戦争の様相を重ね合わせながら次のように解釈を加えている。
「黙示録の最初の部分を開き、とりわけ予言的と思われる個所ではすべて一々止まりながら、読み進む。“第一の御使ラッパを吹きしに、血の混じりたる雹と火とありて(爆発後の黒い雨か。例のfall-out―放射性物質の降下―か)、地にふりくだり、地の三分の一(ただし、専門家の計算によれば、三分の二のはず)焼け失せ、樹の三分の一焼け失せ、もろもろの青草焼け失せたり”
“第二の御使ラッパを吹きしに、火にて燃ゆる大なる山の如きもの海に投げ入れられ(誤って海岸に投じられた何メガトンもの爆弾か)、海の三分の一血に変じ、海の中の造られたる生命あるものの三分の一死に、船の三分の一滅びたり(原子力兵器を使った海戦か)”
“第三の御使ラッパを吹きしに、灯火のごとく燃ゆる大なる星、天より隕ちきたり(レーザー光線で撃たれた宇宙ステーションか)川の三分の一と(ソ連か米国か)水の源泉との上におちたり。この星の名はにがよもぎといふ(まさに軍人がその装置につけた詩的でもあれば、暗示ともとれるたぐいの呼び名である)。水の三分の一はにがよもぎとなり(放射能汚染?)、水の苦くなりしに因りて(つまり放射能)多くの人死にたり。第四の御使ラッパを吹きしに(それにしても、これらの御使たちというのは、超音速飛行機に閉じ籠った政治家や軍人の大物にほかならないのではないか。それともシェルターに潜っている核兵器の技師たちか)、日の三分の一と月の三分の一と星の三分の一と撃たれて、その三分の一は暗くなり、昼の三分の一は光なく、夜も亦おなじ(おそらくいわゆる核の冬がもたらした夜であろうか)”
見られるとおり、まさに黙示録的な比喩に塗り潰された往時の言語によるとはいえ、核戦争に関する情報が正確に伝えられているのは疑いない。」(千種堅訳)
モラヴィアの想像力をかき立てているのは(おそらくは大江健三郎のそれと同じく)、ソ連とアメリカとの東西対立構造下での核だった。いまインドとパキスタンの核保有によって(いわゆる東西の壁の崩壊後に)起きているのは、それとは違う事態だというべきだろう。しかしそのことを語る前に「にがよもぎ」に戻る必要がある。翻訳者の千種はモラヴィアがこの小説でチェルノブイリを予言していたと語る。しかしチェルノブイリの持つ意味とは何か?
チェルノブイリの事件から数日後に、放射能物質が日本に飛来した。私にとってこの事件は、こうして地球が限界をもつ閉じられた環境であることを身近に感じるはじめての経験となったのだ。
環境問題のポイントは、何よりもまず第一に、地球環境に限界があるということを前提としている。そしてあらゆる議論はそこから発生する。
例えば、毎日新聞社が発足させた「21世紀危機警告委員会」は、一九九七年の「東京宣言」で、「地球環境の中ではすべての人が加害者となり、また被害者となる」とし、「各国の政府、企業および個人は、物質消費の拡大がそのまま「生活の質」を向上させるものでないことを的確に理解し、資源の利用と環境の保全を両立させる社会経済システムと生活様式を確立しなければならない」と警告し、「持続可能な開発を実現するため」の処方せんを語っている。(『環境の世紀へ』毎日新聞社・21世紀危機警告委員会編)
人類の開発が持続可能であるためには、現在とは違う社会経済システムを見いださなければならないが、それは人類の生存する地球環境が、加害者が同時に被害者であり、被害者が同時に加害者であるような、閉じられた環境であるからだ。
『現代社会の理論』の見田宗介は、現代の「情報化・消費化社会」が達成したシステム(それは受給のアンバランスによる「恐慌」発生を内部システム的に解消することによって米ソの東西対立を消滅させた)がなお抱える問題群を、「現代の経済学でいう「外部性」ということば」で捉えようとしている。それはもともと環境、公害問題を典型として、市場システムがその外部に及ぼす作用をとりあつかうコンセプトとして用いられていた。現在の社会のシステムは「大量生産→大量消費」という図式で理解されているが、これは現実にはその前後に「大量採取→大量生産→大量消費→大量廃棄」という項を持っている。この両端に位置する項を欧米に端を発する資本主義社会は、その「外部」に存在する自然や第三世界などに追いやることによって発展し続けることができてきた。しかしながら、この「外部」という言葉はいまや訂正すべき時に来ている。「外部」は存在しなくなったのだ。すべては「内部問題」であり、「被害者は同時に加害者」であるのだ。
こうした環境問題のポイントを、『二十一世紀のエチカ』の加藤尚武は、整理して三項目の「環境倫理学の原理」にまとめている。それは、
(1) 地球の生態系という有限空間では、原則としてすべての行為は他者へ
の危害の可能性を持つので、倫理的統制の下におかれ、
(2) 未来の世代の生存条件を保証するという責任が現在の世代にある以上、 (3) 生物種、生態系については、人間は自己の現在の生活を犠牲にしてで
も、保存の完全義務を負う。
というものだ。
ポストモダンと、この文章に掲げられた言葉が何を意味するのか、ここで簡単に定義しておくならば、それは外部をもたない言説の空間であるということになる。それは「批判が常に自分自身を批判してしまう」ような時代のことだ。
加藤尚武がここでいう「環境倫理学の原理」がするどく対立しているのは、実は「生命倫理学の原理」であると加藤は書いている。それは、
(1) 判断能力を持つ成人は、
(2) 自己の生命を含めて、あらゆる「自分のもの」について、
(3) 他者に危害を加えない限りで、
(4) たとえ結果として当人の不利益になる場合でも、
(5) 自己決定の権利をもつ。
というものであり、これを要するに「個人主義・自由主義の原理」である、と加藤はいう。
そして「原理として両立しないこのふたつの原理の対立関係が、現在の人類の生き方の総決算になると見てよい。」と結論めいた感想を加えている。
いうまでもなく「個人主義・自由主義の原理」とは資本主義と近代をささえている原理である。その「個人主義・自由主義の原理」がいま「環境倫理学の原理」に突き当たっている。
それを加藤は「一種の全体主義」であると簡潔に言明している。
この対立するふたつの原理を簡単に理解するためには、加藤も用いているたばこを吸う権利の話を持ち出すのが早いだろう。
もちろん、たばこを吸うことがいかに健康に有害であるとしても、それを吸う権利が個人にはあると私も考える。しかしながら、現実にたばこが有害であるとするなら、それを密室の中で吸うことは、その同じ空間に他者がいるとき、倫理的にひかえられなければならないだろう。
ここで密室は、閉じられた地球環境の比喩だ。
たばこを吸うのが戸外であるとき、たばこを吸うことにはほぼ何の問題もないように思える。しかしそこが他者も同居する密室であるとき、加藤の「生命倫理学」に照らしてみてもたばこを吸うことは問題を生じさせる。「環境倫理学」は「生命倫理学」を地球環境という限定空間の中に置き、「他者」という項目に「将来にわたる世代」を加え、あるいは「人類」以外の生物を加えたものだ。
この加藤のふたつの原理が対立関係にあるという主張には、多くの反論があったと加藤は書いている。その主要なものは「個的生命と全体生命とは、マクロコスモスとミクロコスモスのように調和的なモデルでとらえることができるから、生命倫理学と環境倫理学とを対立関係でとらえる必要はない」という主張にまとめられるという。
エコロジーを、とりわけ「イデオロギーとしてのエコロジー」として捉えてみようとするとき、地球の環境自体が有機的なシステムをもっていて、そのシステム自体を捉えなおすことで、近代の人類が突き当たっている問題を乗り越えようとする一連の主張の存在を無視することはできない。
橋爪大三郎は、七十年代にエコロジーの運動は産業社会からの脱出の物語として登場したと書いている。『現代思想はいま何を考えればよいのか』において、橋爪大三郎は、産業革命を自然からの収奪(搾取)として告発し、その外にまったく新たな社会(コミューン)を築こうとする、極端に厳格なエコロジー運動を、エコロジカル・ミニマリストと呼び、それに対して、産業社会と地球=生態系との関係を、きちんと押さえていこうという人々を、エコロジカル・リアリストと呼んでいる。
橋爪大三郎は、エコロジカル・ミニマリストの考え方を、地球上に生存する何十万もの人類が現在の産業社会の生産性を前提としている限り、現実的なものとして成立しえないとしている。「いま生きている人に、死んでくださいと言わないと、理想が実現しない。そんな運動が、現実的であろうはずがない。」と橋爪は書く。
それに対して、エコロジカル・リアリストは、たとえば、このさき化石燃料は何年もつか、温暖化はどういう影響があるか、フロンガスは、などといった問題を、データに即して検討しなくてはならない。そうしたことは、産業社会の技術水準や操業水準に依存してしか予測できない。つまり、エコロジカル・リアリストは、産業文明の水先案内人として、資本主義と一緒に歩む人々なのだ。決して資本主義社会を脱出することにはならない。
したがって橋爪の主張は、エコロジーというものが現実的な思想、あるいは考え方として成り立つためには、エコロジカル・リアリストとして、資本主義と一緒に歩むものでなければならないということになるだろう。
一九九二年にブラジルのリオデジャネイロで行われた「地球サミット」(環境と開発に関する国連会議)で出たさまざま主張は、結局は三つの手筋にまとめることができると加藤尚武は書いている。その三つは@成長を拒否して環境を守れという「環境ラディカリスト」の主張であり、A成長を維持して環境を守れという「環境現実主義者」の主張であり、最後にB環境を犠牲にして成長を守れという「経済現実主義」の主張になる。
橋爪のエコロジカル・ミニマリストが「環境ラディカリスト」に、エコロジカル・リアリストが「環境現実主義者」に対応することは明白だ。この中で「経済現実主義者」は環境問題では徹底したペシミストということになる。
「地球サミット」において、アメリカを除く先進国は、さまざまなニュアンスを持つとはいえ、「環境現実主義者」を演じた。「経済現実主義」を主張したのはアメリカだけではなかった。いわゆる南の国(発展途上国)もまた「環境保護よりも成長が優先する」という「経済現実主義」であるしかない。その周囲をNGOの「環境ラディカリスト」が取り巻くことになる。この構図は、昨年京都で開かれたCOP3(気候変動枠組み条約第三回締約国会議)に至るまで基本的には変わっていないのだ。
「持続可能な発展」という、「地球サミット」で提唱されたスローガンは、いうまでもなく「環境現実主義者」あるいはエコロジカル・リアリストのものである。
こうした経緯が明らかにしているのは、以下のことであるだろう。
はじめ、エコロジーという主張は、橋爪の考えにしたがえば、資本主義社会に対する批判として登場してきた。それは現在も「環境ラディカリスト」としてNGO活動を続けている。
しかし東西の壁の崩壊以降、資本主義対○○という対立の図式がなくなってしまった後に、環境問題も先進国の間で「環境現実主義」的な主張として内部化されることになったのだ。エコロジーはポストモダンな主張となったのだ。
エコロジーは考えるに値する問題だろうか?
ある意味で、エコロジーという思想は存在しない。そこここには科学的に考えられ、解決されなければならない問題が、次第に比重を増しながら散見されるというだけのことだ。それは他にも沢山存在して、解決されることを待っている問題のひとつ、ふたつ、みっつであるにすぎないだろう。
しかし、ある意味で、エコロジーにはイデオロギー的な匂いが付きまとっている。そこで注視しつづけなければならないと私が思うのは「生命倫理学」と呼ばれもした「個人主義・自由主義」の行方だ。資本主義を支えてきたこのイデオロギーが批判にさらされるとき、それが仮に「環境ラディカリスト」の中の「環境=有機的システム論者」のような主張であるとしても、その表れ方は常に一種の全体主義という形態をとるだろう。「個人主義・自由主義」は果たして生き残ることができるのか、それは変貌を遂げつつある資本主義の中でどういう形態をとるのか。考えられなければ、あるいは感じられなければならないのはそのことであるように思われる。
パキスタンの核実験からこの文章をはじめた限りは、そこに戻らずにこの文章を終わることはできないだろう。
F・フクヤマが「歴史の終わり」を語ったのは、共産主義に対する自由主義の勝利を宣言してのことだった。「エコロジー」はいわばその「歴史の終わり」の後に資本主義が見いだした新たな問題だった。「歴史の終わり」がポスト・冷戦を指すのなら、インドとパキスタンの核武装もまた「歴史の終わり」以降の問題だということになる。
この文章が、こうした関連から指摘できるだろうことは、いまやもはや「核」を黙示録的な終末観で語ること、あるいはほぼ同類の反応として、「核」を批判するために「人類」や「平和」や「正義」を持ち出すことにはほとんど意味がない、ということだ。かつてそうしたことを主張することには、東西両陣営に連なるいずれかのイデオロギー的意味合いをもつことができただろう。いまそうした主張をすることはほとんどグロテスクな時代錯誤でしかない。それはルーズソックスを履いた女子高校生が核実験反対の幕を抱えている報道写真に抱いた違和感と重なるだろう。
少なくとも私には、核実験反対と書かれた文字よりも、足元に垂れた白い靴下のほうが、確かな現実観を持っている。
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