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text/金水 正

 

「出版物にかんする市場の成立」を「文学場」の下部構造であるとするなら、「芸術愛」的言説はそのイデオロギーである。そのようすをブルデューは、フローベールの『感情教育』の構造を分析することによって知ることができるとしている。

 

長谷正人氏の「文学と芸術の社会学」(『岩波講座 現代社会学8 文学と芸術の社会学』所載)は、「文学と芸術に関する社会学的研究は、さしたる隆盛も発展もないまま今日に至っていると言えよう。それはなぜだろうか。」という問いから始まっている。この問いに対する『芸術の規則T』におけるピエール・ブルデューの答えは「それは人々が、文学や芸術に関わる美的経験というものを、科学的分析では捉えられないような超越的で特権的なものと信じたいからであると。」(長谷)

この論文で問題とされているのは、結局のところ、「文学」もしくは「芸術」と「社会学」との間の二項対立図式である。ブルデューの言葉によれば「芸術(文学)」のもつ「文学創造者の唯一性」や「文学の創造性」といった超越的な力を、「社会学」は日常的で平板な社会構造の中に取り込み「凡庸なるもの」「平均」へと還元してしまうことになる。それでは、芸術(文学)の芸術たる所以(芸術の唯一性)が、分析の対象からこぼれ落ちてしまうことになるだろう。

そこで、ブルデューは、 分析の対象をずらし、 この「芸術」と「社会学(科学)」との間の二項対立図式そのものへ焦点を合わせることにする。ブルデューは、芸術作品を超越的な地位に止めておこうとする「芸術愛」的な言説を成立させているような社会空間自体を分析の対象にする。「芸術愛」的な言説が飛び交うコミュニケーション空間自体を制度的な「場」と捉え、それを「芸術場」もしくは「文学場」と彼は命名し、その「場」の成立自体を「科学的」に分析しようとするのである。

では、この「芸術場」ないしは「文学場」はいつどのようにして成立したのか。ブルデューによると、 それは十九世紀フランスの第二帝政期であり、 例えば「文学場」は「出版物にかんする市場の成立を背景として、文学を「職業」として選択する人間たちが大量に登場することによって初めて生じたのである。言わばそれは、文学という霞を食って生きていきたいと熱望するロマンチックな青年たちが集って作り出した、危ういボヘンミアン的自由空間なのである。「文学場」の出現は、文学活動の意味を全く変えてしまった。かつての文学とは、才能と金と暇に恵まれた者が生活の余技として個々人でバラバラに行う者であったのだが、「文学場」の成立によって、文学関係者は互いのコミュニケーションや「評価」の与えあいのなかでしか活動できないようになチた。つまりこの「文学場」こそが、全ての文学活動に意味を与え、作家集団を構造化する、文学世界の活動基盤なのである。」(長谷)

「出版物にかんする市場の成立」を「文学場」の下部構造であるとするなら、「芸術愛」的言説はそのイデオロギーである。そのようすをブルデューは、フローベールの『感情教育』の構造を分析することによって知ることができるとしている。以下、長谷氏の要約に従って、ブルデューの論旨を追おう。

フローベールの『感情教育』には三人の女性が登場する。主人公のフレデリックは物語の全体を通じて、アルヌー夫人にロマンチックで純粋な愛を感じ続ける。アルヌー夫人はフレデリックにとってブルジョワ的な利害関係を超越した無私無欲の純粋愛を象徴している。これに対してダンブルーズ夫人への愛は、社交界への仲間入りという俗っぽい欲望(出世欲)を象徴している。最後にロザネットは、フレデリックにとって、アルヌー夫人的純粋愛の世界とダンブルーズ夫人的出世欲の世界の中間にあって、窮屈な社会的仮面を脱ぎ捨て、欲望(性欲と金銭欲)をストレートに発揮することができるくつろぎの場となる。

ブルデューによれば、フレデリックと三人の女性の関係は、そのままフローベール自身と文学者たちの世界(文学場)との関係を象徴している。ダンブルーズ夫人は、美術における官展やアカデミーのように権力によって公認されているブルジョワ芸術(第二帝政期における保守的な家族愛についての詩や戯曲等)を示している。ロザネットが象徴しているのはヴォードヴィルやキャバレーなどの非公式的芸術で、ブルジョワ観客による支払いに経済的に依存しているような商業芸術である。そして最後に、アルヌー夫人は、権力によって公認されもせず、 かといって商業的な収入にも依存していない純粋な「芸術」 つまり「芸術のための芸術」を象徴している。

フローベールにとって、結局のところ重要なのはアルヌー夫人=「芸術のための芸術」である。物語においてもフレデリックは、ダンブルーズ夫人との恋愛(出世)にもロザネットとの恋愛(贅沢な生活)にも失敗し、結局はアルヌー夫人へのロマンチックな思いとプラトニックな関係を半生に渡って貫くことになる。ブルデューによればこの小説の奥底には、フローベール自身が、政府公認の芸術家になることも、金銭目当ての商業作家になることも拒絶して、「芸術のための芸術」の世界にいきることを決断していたことが秘められているというのである。

この「芸術のための芸術」の主張こそ、「文学場」を成立させるために、フローベールが必要としているものであった。「文学場」を自律したものとして成立させるためには、それが他の価値観、すなわち権力公認のそれとも、市場に依存したそれとも独立した価値観として成立していなくてはならないだろう。そうした価値観の成立する場所を、フローベールは『感情教育』における三人の女性との関係によって象徴させていたというのである。

(つづく)


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