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text/金水 正

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

課 題

 遊歩者(flaneur)は、19世紀の初頭に近代都市の発達とともに発生した。「遊歩者」という言葉は、ヴェルナー・ホーフマンの『ナナ マネ・女・欲望の時代』の記述によると1940年代初めのジュール・ジャナンの監修による『心理学』シリーズの一巻のタイトルとして取り上げられていることが分かる。フランスにおいては(あるいはパリにおいては)、19世紀の前半において、気ままにパサージュを遊歩し、そこに飾られている商品を眺めている者たちの存在が既に話題となっていたようだ。

 ヴァルター・ベンヤミンが、近代(都市)を分析した『パサージュ論』と数編の「ボードレール論」の中で遊歩者(フラヌール)を重要なキーワードとして使用して以来、「遊歩者」は近代都市の分析概念として注目されてきた。しかしながら、ベンヤミンが独特に使用する多くのキーワードが概ねそうであるように、「遊歩者」という言葉もまた一義的ではなく両価的である。

 また、『視線と差異──フェミニズムで読む美術史』のグリゼルダ・ポロックは、「散策者/アーティスト」=遊歩者の視線を、近代社会(とその空間)を階級とジェンダーによって分節化する、ブルジョワ男性の窃視者としての視線であると断じる。遊歩者の視線は、女性を受動的で、見せびらかし、見られる、客体として形成してしまう。(ここでポロックが例題として取り上げているのは、シャルル・ボードレールの「現代生活の画家」であり、ベンヤミンがそれらを分析した「ボードレール論」である。)

 あるいはまた、エマニュエル・カントの『啓蒙とは何か』を扱ったミッシェル・フーコーの小論文;What Is Enlightenment? は、啓蒙を近代の「未完の(そして永遠に継続されるべき)プロジェクト」として捉え、この近代の態度(attitude)の不可欠な例としてボードレールの「現代生活の画家」に描かれるコンスタンタン・ギースについて書いている。しかしながらこの論文の中で、フーコーは「間違ってはいけないが、コンスタンタン・ギースは遊歩者ではない」と書いている。フーコーはこの論文の中で、ギースの態度を「現代生活の英雄性」として描いているのであるが、その「英雄性」は遊歩者との微妙な差異のうちに宿っているようである。

 ここで「遊歩者」という概念が近代の批判概念として有効であるか否かを直接的に扱うことは、このレポートの任を超えている。このレポートの課題は、ベンヤミンの「遊歩者」という言葉の概略と、フーコー論文における「遊歩者」の位置づけを簡単にたどることに尽きている。

ベンヤミンにおける「遊歩者」の概略

 遊歩者は、ヴァルター・ベンヤミンの『パサージュ論』の中で、近代と都市を読み解くための重要なキーワードとして登場し、あるいはまた並行して展開された「ボードレール論」(「パリ──十九世紀の首都」「セントラルパーク」「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」等)の中でも重要なキーワードとして使用されている。

 ベンヤミンは、「パリ──十九世紀の首都」の「ボードレールあるいはパリの街路」にこう書いている。

「憂鬱によって養われているボードレールの天分は、アレゴリーの天分である。ボードレールにおいてはじめて、パリが叙情詩の対象となる。この文学は郷土文学ではない。都市をとらえるアレゴリー詩人のまなざしは、むしろ疎外された〔よそ者になった〕人のまなざしである。それは遊歩者のまなざしである。遊歩者の生活形式は、のちの大都市住民の悲惨な生活形式を、まだ仄かな宥和の光で包んでいる。遊歩者はまだ大都市への、そして市民階級への敷居〔過渡期、移行領域〕の上にいる。彼は、そのどちらにもまだ完全には取り込まれていない。そのどちらにも彼は安住できない。彼は群衆の中に隠れ家を求める。群衆の観相学に関する先駆的な仕事は、エンゲルスとポーに見られる。群衆とはヴェールであり、見慣れた都市は幻像(ファンタスマゴリー)と化して、このヴェール越しに遊歩者を招き寄せるのである。/幻像のなかで、都市はあるときは風景となり、またあるときは部屋となる。この両者を兼ねるものとして出現したのがデパートであって、それは遊歩そのものを商品販売のために利用する。デパートは遊歩者のための最後の領域である。」(『ベンヤミン・コレクション・ 近代の意味』ちくま学芸文庫 /は改行)

ボードレールは、近代都市パリをはじめて叙情詩の対象とした。いわばその方法論が、「遊歩者のまなざし」であった。近代都市パリは遊歩者を発生させたが、その「遊歩者」を梃子としてベンヤミンは近代都市パリとボードレールの詩の謎を解析しようとする。それはそこに、近代のはじまりそのものの謎が隠されているとベンヤミンが考えたからに違いない。

 ベンヤミンによれば、遊歩者のまなざしは「よそ者になった人のまなざし」である。彼は、彼が眺めているものから疎外されており、よそ者であるからこそ、幾分か「気まま」であるのだ。遊歩者は、大都市と市民階級の敷居の上にいる。彼は中間的であいまいな存在だ。彼は、群衆の中に隠れる。群衆はヴェールであり、遊歩者は群衆というヴェールをとおして都市を見る。その時、都市はファンタスマゴリーとなる。ベンヤミンの課題は、このファンタスマゴリーの唯物論的な(あるいは弁証法的な)解析であったろう。いずれにせよ、ここで遊歩者と、群衆と、都市との関係が、おのおの独立したものの関係として描写されていることに注目しておきたい。

 ところで、「大都市と市民階級の敷居の上」とはどういう位置であるのか。これに続く文章においてベンヤミンは、遊歩者としての知識人をボヘミアンの仲間と定義し、ボヘミアン=職業的陰謀家の活動領域を初めに軍隊、のちに小市民層、またあるときはプロレタリアートであるが、しかしこの職業的陰謀家は、プロレタリアートの本当の指導者たち、すなわち共産主義者を敵と見なす、と書いている。

 フランス19世紀の七月王政(1930年)下から二月革命(1948年)を経て第二帝政期に至る間のボヘミアンたちの活躍ぶりについては、横張誠の『芸術と策謀のパリ ナポレオン三世時代の怪しい男(ボエーム)たち』(講談社選書メチエ)に詳しいが、ボヘミアンは一定の階級でもなければ党派でもなかった。それは常にいかがわしく中間的な存在であり、その定義自体が、この期間にも複数存在し、輻輳し、変化している。ベンヤミンの記述は、この時代を分析したカール・マルクスの幾つかの著作によるものと見られるが、マルクスもまた、ある時にはボヘミアンをルンペン・プロレタリアートと等価視している。ボヘミアンが先導する労働者たちの運動が、共産主義革命に結びつく夢を見たユートピア思想者たちがこの時代には多数存在していた。マルクスらによれば、プロレタリアートは革命へ向けて正しく組織されるべきであり、この意味においてボヘミアンと共産主義者は対立することになる。とまれ、横張の『芸術と策謀のパリ』における「ボヘーム体制からブルジョワ体制へ」という結論、すなわち「ボヘーム」的なるもの自体が「ブルジョワ」的なるものへと重なり吸収されてしまうという事態は、ヴェルナー・ホーフマンの『ナナ』における結論、エドゥアール・マネにおける初期のアウトサイダーとしてのフラヌール=フラヌーズから後期のブルジョワ化したフラヌール=フラヌーズへの移行、マネはアウトサイダーをブルジョワ化することによって、ブルジョワのアウトサイダー的役割を発見したという結論と重なり合っている。

 「大都市と市民階級の敷居の上」とは、その直前に「大都市住民の悲惨な生活形式」と書かれていることからして、プロレタリアートとブルジョワジーの中間と解釈されよう。既に見たようにこの間の労働者の運動は、共産主義革命へと結実することはならず、社会は第二帝政下において全面的にブルジョワ化するかに見える。そうした状況の変化の中で、芸術家(文学者、画家)たちはブルジョワジーへの抵抗という自分たちのスタンスを微妙に変化させざるをえなくなる。ベンヤミンの分析は、そうした芸術家の一人であるボードレールの視線を、曖昧で中間的な遊歩者の視線と重ね合わせていると、とりあえずは言うことができるだろう。

 とりあえず、とここで書かざるをえない理由は、ボードレールが自らを「遊歩者」と過不足なく重ね合わせていたとは言い切れないからである。その関係は、ボードレールとブルジョワジーやプロレタリアート、つまりは群衆との関係にも等しい。ボードレールはある時は自らを彼らと重ね合わせながら、一方で彼らへの嫌悪を隠さない。ボードレールは政治的にも幾つかの立場を経巡ったが、ある意味では常に曖昧であった。この曖昧性、中間性は、「遊歩者」の位置づけにもおそらくは重なるであろう。ベンヤミンは「遊歩者」をその中間性と両価性のままに解析しようとした。明らかに「遊歩者」は近代の歴史的な限界性を負った存在であり、時にはグリゼルダ・ポロックが行うような批判の対象とされなければならないかもしれない。しかしながらベンヤミンが「遊歩者」に関心を抱くのは、まさしくその両価性においてであるだろう。「遊歩者」を近代の批判者として鍛え上げるためには、おそらく幾分かの操作が必要となるのである。

フーコーの「啓蒙とは何か」における「遊歩者」の位置 

 ミッシェル・フーコーの' What Is Enlightenment? ' (Paul Rabinow (ed.), in The Foucault Reader, New York: Pantheon, 1984, pp.32-50.) は、近代哲学を「啓蒙とは何か」という問いに答えようとする哲学であるとし、カントがその『啓蒙とは何か』の中で答えようとした問いは、現在においても未解決の問いであるとしている。
 よく知られるように『啓蒙とは何か』の中で、カントは次のように書いている。

「啓蒙とは、人間が自分の未成年状態から抜け出ることである、ところでこの状態は、人間がみずから招いたものであるから、彼自身にその責めがある。未成年とは、他人の指導がなければ、自分自身の悟性を使用し得ない状態である。ところでかかる未成年状態にとどまっているのは彼自身に責めがある、というのは、この状態にある原因は、悟性が欠けているためではなくて、むしろ他人の指導がなくても自分自身の悟性が敢えて使用しようとする決意と勇気とを欠くところにあるからである。それだから「敢えて賢こかれ!(Sepere sude)」、「自分自身の悟性を使用する勇気をもて!」──これがすなわち啓蒙の標語である。」(『啓蒙とは何か 他四編』岩波文庫)

フーコーは分析を進めて、カントのこの論文が、18世紀末におけるカントの時代性を真っ正面からカントが受けて書いた近代の時代の刻印を受けたものであること(その意味において決して超越論的でも形而上学的でもありえないということ)、そして、カントが現代という時代(=啓蒙)を、未成年状態からの脱出と捉えていること、それはすなわち近代の主体が、理性と自由とを行使しようとするある種の「態度(attitude)」であることを示している。ボードレールが描くコンスタンタン・ギースの「近代性の態度(attitude of modernity)」と「遊歩者」との関係が分析されるのは、ここにおいてである。

 まずフーコーは、ボードレールが「近代性(modernity)」を定義して、それを「一時的なもの、うつろい易いもの、偶発的なもの」であるとした以上に、それらの流行性の中から「永遠的なるもの」を掴み出すこと、現代の中に英雄的な視点を発見することを主張したこと指摘している。

 二つめにフーコーは、ボードレールの「近代性」がアイロニカルな性格を持つものであることを指摘する。それは過ぎ去っていく現在という時間をそのまま神聖化することではない。それはむしろ現在の現実性の中に、現実性以上のものを想像する身を焦がすような努力である。

 そして、それ故に、ボードレールにとっての「近代性」とは、単に現在との関係を持つものではなく、その中にあって自らを発明する禁欲的な「態度」である。(それをボードレールは「ダンディズム」と当時の言葉で呼んでいた。)

 そして最後にフーコーは、これらのことをボードレールが芸術という領域においてのみ可能な事柄であると考えていたことを指摘している。

 フーコーがこの論文で目論でいることは、近代というわれわれの時代を超越論や形而上学に回収されることなく(すなわち、つねに自分自身がそこに含まれている限界の自覚の中で)そこから脱出していく哲学的な「態度」もしくは「エートス」といったもののデッサンを描くことであったと思われる。その意味で、この論文は、後期フーコーの意義を測る重要な意味を持っているように思われる。

 ところで、肝心のコンスタンタン・ギースと「遊歩者」が登場するのは、ボードレールに関するフーコーの二つめの指摘においてである。フーコーによれば、過ぎ去る時間を神聖化し、つかの間の面白味をもてはやすのは、怠け者の、うろつきまわる見物人、すなわち「遊歩者」の態度であるということになる。「現代(近代)生活」を描写するコンスタンタン・ギースは、一見「遊歩者」であるかのようである。しかし彼は、群衆と遊歩者が都市から退いて夜の帳が落ちる頃に、ようやく自らの仕事場に帰り、すさまじい勢いで彼が見たことを描き出す。彼に課せられているのは、「近代生活」の中に「近代生活の英雄性」を発見することである。間違ってもコンスタンタン・ギースを「遊歩者」であると考えてはいけないと、フーコーは念を押している。

 ボードレールは、自らが群衆であり、遊歩者であり、ブルジョワジーであることを自覚しつつそれを嫌悪していた。その彼に与えられた方法が、イロニーであり、アレゴリーであり、憂鬱であった。自らがそうであるところのものを自覚しつつ、そこからの脱出口を探る態度、それが「近代性の態度」であり、フーコーが新しい意味あいで「啓蒙」と呼ぶものである。「遊歩者」が近代を批判するためには、自らが「遊歩者」であることを自覚し、そこからの逃走の線を引かねばならない。そのための自律的な主体性を鍛え上げること、そのことが「遊歩者」としてのわれわれに課せられている。

参考文献

『ナナ マネ・女・欲望の時代』 ヴェルナー・ホーフマン パルコ出版局
『パサージュ論』 ヴァルター・ベンヤミン 岩波書店
『ベンヤミン・コレクション1 近代の意味』 ヴァルター・ベンヤミン ちくま学芸文庫
『視線と差異──フェミニズムで読む美術史』 グリゼルダ・ポロック 新水社
『啓蒙とは何か 他四編』 カント 岩波文庫
' What Is Enlightenment? '  Paul Rabinow (ed.), in The Foucault Reader, New York: Pantheon, 1984, pp.32-50.
『芸術と策謀のパリ ナポレオン三世時代の怪しい男(ボエーム)たち』 横張誠 講談社選書メチエ
『群衆──モンスターの誕生』 今村仁司 ちくま新書
『ボードレール批評 1、2』 シャルル・ボードレール ちくま学芸文庫
『群衆の中の芸術家 ボードレールと十九世紀フランス絵画』 阿部良雄 ちくま学芸文庫

    
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