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精神科医の中井久夫によれば、回復期の分裂病患者が症状をぶりかえすきっかけとして、「自転車で人ごみの中を突っ走る」という行為が多く見られるそうだ。
この場合、患者は「追い抜く人の会話の一句二句をひろって走ることになる。この切れ切れに耳に入ってきた人のことばは、それ自体はほとんどなにも意味しないのだが、いやそれゆえにと言うべきか、聴きのがせぬ何かの(たとえば自分への批評の)兆候となる。そこからさまざまな"異常体験"への裂け目がはじまる。」(『分裂病と人類』東京大学出版会、P.7)

分裂病患者でなくとも、他者の声はいつも私たちをおびやかす。声には、人をおびやかし強制する「力」がある。声は、ニュートラルな空気の振動ではない。


私たちは、他者の声を聞くことによって言語を習得し、自分というものを形成する。ラカンがいう通り、私という存在の根底には他者の声がある。私たちの「自我」や「主体」は、あらかじめ他者の声に侵されている。にもかかわらず私たちが「主体的」に行為するというとき、そこでは何が起こっているのだろうか。

『ヴァイブレータ』の結末では、主人公は恋人のトラックを運転させてもらう、というささやかな冒険をきっかけに、他者の声が反響するルツボのような内声の地獄から脱する経験をもつ。「声たちは、メインの考え以外は消えている。いつかまた聞こえるのだろう、あたしはそれを受け容れる。受け容れるしかない。でも今は消えている。(中略)ただあたしは自分が、いいものになった気がした。それだけでよかった。」(新潮社、P.176)

そこでは何が起こっているのだろうか。
(1999/9/20号掲載)

               
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