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バフチンは、『地下生活者の手記』の主人公が、他者の声をたえず先取りするようにして語る、ということを指摘している。私たちは実際、そのようにして、他人の声を先に思い浮かべ、それに呼応して心のうちで語っていることがよくある。
しかし、他者の声を先取りするには、あらかじめ他者が何をいうか知っていなければならない。そんなものは他者といえるだろうか。

小学生のころ、眠れない夜に、クラスの友達全員が私の名を叱りつけるように呼ぶ声を、一人一人について明瞭に思い浮かべることができた。実際にはそんなふうに叱られたことがないのに、である。

心のなかで、思いがけない言葉として他者の声を聞く。それは端的には分裂病者の言語幻覚によくみられる。もうひとつ、なじみ深いのは、信仰者の宗教体験としてよくみられる、神ないし超越者の声を聞くという体験である。聖書にはそうした例が数多くあげられているし、アウグスティヌスは、庭のいちじくの木陰で、隣の家から少年か少女のような声で「とれ、よめ」(tolle,lege)と呼びかける言葉を聞き、それを回心のきっかけとしている。

W・ジェイムズの『宗教的経験の諸相』には、そうした宗教体験のサンプルが標本箱のように列挙されているが、そのなかから、ふたつ例をあげよう。「神は、わたしにとってはまったくの実在である。わたしは神に語りかける、するとしばしば答を得る。わたしが神に指図をこうと、わたしがそれまで抱いていたのとはまったく違った恩寵が、突如として、わたしの心に浮かんでくる。一年あまり前に、わたしは数週の間ひどい困惑の状態にあった。その苦難がはじめてわたしの前に現われたとき、私は呆然としてしまったが、しかし、間もなく(二時間か三時間たってから)、『わが恩恵、なんじに足れり』という聖書の一節をはっきりと耳にすることができた。」
「ときどき、わたしが神の目の前にいて、神と語り合っているような気がすることがある。祈りに対する応答がしばしば、じかに、そして神の現前と力とを啓示しながら圧倒的な威力をもって、与えられた。」(岩波文庫、上巻P.111〜112)

そこでは何が起こっているのだろうか。
(1999/9/27号掲載)

               
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