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吉見俊哉『「声」の資本主義』(講談社選書メチエ)の冒頭には、隣家から聞こえてくるラジオの音声に苛立ち、ラジオを異常なまでに嫌った永井荷風の姿が紹介されている。吉見は、荷風の苛立ちの背景にある、ラジオがもたらした当時の東京の音風景の変容を的確に描き出してくれる。ただし、それを読んでも、荷風がなぜそんなにラジオを嫌ったのか、その嫌悪感の中心にあるものは見えてこない。
内声が苛立たしいというとき、人は何に苛立っているのか。
例えば、テレビのアナウンサーの声、ある俳優のセリフの抑揚、身近な人の話し方、そして、テープレコーダーで再生された自分の声。それらがどうしようもなく耳障りで、苛立たしいことがよくある。それは単なる好悪の問題ではない。
小学生の頃、学校で強いられた数々のおぞましい経験の中で、もっとも耐え難かったもののひとつに「呼びかけ」という、あれはいったい何だろうか、演劇のようなものの練習をさせられるという体験があった。たしか、高学年の子たちは、一人ひとりにセリフがある普通の演劇を上演できるのに、低学年(1年生だけか?)では、全員がひとつのセリフを唱和させられるという、コロスだけの演劇のようなこの特異な劇形式を上演させられるのである。あれには、どういう教育的意図があったのか。次回までに調べてみたい。(1999/10/4号掲載)
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