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襖の隙間から漏れ入ってくる光。誰かを起こさないように、ひそひそと語りあう父と母の声。それと絡まるように、鳴っている楽しげな音楽。「イエイエ。」踏み鳴らされるおおぜいの靴音。「イエイエ。」繰り返される「レナウン」という言葉。見たい。画面には何が映ってるんだろう?

内声の政治学は、その最初の発想を、「無意識とは他者のディスクールである」というラカンのテーゼに負っている。

前号でも引用したラカン派の精神分析家、新宮一成はこう書く。「事実、そこから私が意味を得る言語という他者が、私という者よりも古くから存在していたことは明白である。私は、私が何であるかを知らないまま、私が何であるかを知っているかのように振舞っている他者たちの中へ、生み落とされたのである。人々は、私について、すでに語り合っていた。そして私は、その語らいに参加することはできなかった。私と言語との出会いは、このような無力な受難として開始されたのである。」(『ラカンの精神分析』講談社現代新書、P.122)そして、「他者の語らい(ディスクール)は、意味でなく欲望を伝える」。

テレビの欲望とは、何だろうか? ただひとつの、テレビのメッセージ。それは、「私に関心をもて」ということではないだろうか?
(1999/10/18号掲載)

               
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