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複数の声がこだまする内声空間において、いかにして「主体性」をたちあげるか。

金水氏と対話する黒崎氏が指摘するように、インターネットの言説空間は、膨大で無意味な言説の掃き溜めのようなものになりかねない危険を本質的にはら んでいる。興味深いのは、そうした空間の中で、いわゆる「差別落書き」が多発していることだ。

人はなぜ落書きをするのか。落書きとは、内声とエクリチュールとの秘められた接点である。トイレの壁に向かう。そこには、常にすでに、先客の誰かが書 きこんだ落書きがある。指に糞をつけて書きなぐった字の痕跡。たとえ文字がなくとも、誰かが放った尿の軌跡か臭気ぐらいは残されている。マーキング。 そこにいたはずの人。これからトイレに来る人。不在の人との対話がはじまる。いや、その前に、開いたほうの手はもうポケットの中でペンを探している。(犬 ならこう書くところだ。俺の縄張りに入るな。)

美しい落書きもある。
以前住んでいた東京・王子で大規模な公共工事があった。ある朝、できあがったばかりの高架線の橋梁のコンクリの壁に、大きな字で落書きが書かれていた。 「大木金太郎」と。大人が腕をいっぱいに揮ったぐらいの字で。しかも脚立に乗らなくては届かないような高いところに。
なぜ「大木金太郎」なのか。大木金太郎といえば私たちが子どもの頃に活躍したプロレスラーのはずだ。落書きの筆者は、深夜歩いていて、建ちあがった建 造物の巨壁にありし日のレスラーの勇姿を思い描き、うたた愛慕と追憶の念に耐え切れず、思わず知らず筆を揮ったのであろうか。

単一の声から複数の声へ。80年代に青年期を過ごした私たちの世代は、いっさいの抑圧や束縛を生み出す言説からの逃走をめざして、こわばった既成の言説 の場の自壊を誘うような言語実践をつむぎつづけてきた。それは現在どんな風景を生み出しているか。いっさいの束縛から自由であろうとした私たちの言語 実践は、私たちの子どもに未来永劫日の丸を仰ぎ君が代を歌えと強制する法律の成立を誘い出してしまった。誰がいったいそんなことを望んでいるのか?  このことに抵抗する言葉を有効に組織化できなかった自分に、深い衝撃を覚える。

辞任した西村某次官の言説。あのように、誰かがマスコミで突出した「失言」を行い、それをもみ消すという操作を繰り返しながら、戦後体制を打破する方 向で人々の無意識の世論を誘導していくというやり方は、自民党の中ではすでにオーソドックスな政治手法として確立されている。無意識の世論。声なき声。 60年安保の時期に、岸首相はこういった。デモに来る人だけが国民じゃない。野球を見ている人だっている。私は国民の声なき声に耳を傾ける。
そしてさらに、そもそも便所の落書きのようなマンガから出発した小林よしのりらの言説…。そう、今やこの社会を動かしているのは便所の落書きなのだ。
(2000/2/21号掲載)

               
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