すべてがウソくさかった。この声がイヤだった。
例えば、学校で友達に消しゴムを貸したとする。その出来事はたちまち、その行為を何か意義あるもののように意味付けし、ドラマのように演出する声に取り巻かれる。「友情」といった言葉が聞こえる。私は厭らしさに怖気をふるう。しかし、それに抗う言葉もまた、おおげさに演出されている。テレビドラマのナレーションのように。「洋子は、東京に去った春男の残した言葉を胸のうちで噛み締め、明日もまた力強く生きていこうと心に誓うのであった。」(そういえば、最近のドラマにはこんなナレーション少ないな。)
窓の外でウグイスが鳴いている。初春の今の時期、ウグイスの声は破調に満ちている。「ホーホケキョ」ではなく、例えば「ホーホケベチョ」といったようにそれは聞こえる。母の話によれば、春が深まるにつれて、ウグイスは鳴くのがうまくなるそうだ。そういえば、ウグイスの鳴き声を競う品評会(何というのか)に出される鳥は、一定期間お手本となる鳥の近くにおかれて、鳴き声を訓練するという。庭に遊ぶ鳥も、他の鳥の鳴き声に耳を傾け、自らの鳴き声の調子を整えるのだろう。何でそんなことするのか知らないけど、そうするのだろう。
鳥と同じように、私たちも他人が話す声の口真似をすることによって言葉を習得する。そのことにイヤも悪いもない。しかし私たちは、例えば政治について語るとき、その言葉がテレビのニュース解説やタレント評論家の口ぶりに似てしまうことに、どうしようもない嫌気を感じる。この「嫌気」は何なのか。
すべては語られてしまっている。自分に残されたオジリナルの言葉はない。そうした感受が十代の私を支配しつづけた。(それにしてもオリジナルの言葉って何だ?)
この声がイヤだ。すべての行為にベタベタとまつわりつき、おおげさに意味付けし…。偽善的な声…。私は遠くに行きたいと思った。この声が聞こえないところへ。脱出口を教えてくれたのは三島由紀夫だった。そんなものは無視すればいい、と彼は教えてくれた。ゴミゴミとした自意識の問題なんかにかかわらなくていい。なすべきことは、ペンをもって美しい物語を紡ぎ出すことだ。小説なんて、どうせウソっぱちなんだから。その通りだった。小説はウソっぱちだと決めてしまえば、ペンをもったとたん声は文章の下書きをするひとつの力強い声に統合される。「声たちは、メインの考え以外は消えている。いつかまた聞こえるのだろう、あたしはそれを受け容れる。受け容れるしかない。でも今は消えている。(中略)ただあたしは自分が、いいものになった気がした。それだけでよかった。」(赤坂真理『ヴァイブレータ』)
それだけじゃよくないのだ。(2000/3/13号掲載)
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