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以下、本論の方向性を明らかにする一助として、この5月に『キェルケゴールと親鸞−宗教的真理の伝達者たち−』(ミネルヴァ書房)を刊行した蓑輪秀邦氏への手紙の一節を引用する。

たとえば、釈迦でもイエスでも親鸞でもマルクスでも、創始者の思想はイキイキと人を解放するような自由闊達さにあふれているのに、その思想が真理として後世に伝えられ、〜教団や〜主義といったカタチをとるにつれ、耐えがたい抑圧に転じてしまうといったことが、昔もいまもよく起こります。こういったことがなぜ起きてしまうのか? (蓑輪氏が)「真理の伝達」ということを問題にしておられるのは、実はそのことを問うておられるのではないか、と思いました。
そうだとすれば、その問いかけはポスト構造主義と呼ばれるような現代の思想と通ずるものです。ポスト構造主義の代表者のひとりにデリダがいますが、彼の思想の隠されたモチーフは、「なぜ、人間を幸せにすることから出発したはずのマルクス主義が、収容所列島のような抑圧的な体制を生み出してしまったのか」ということなのだと私は思っています。(彼自身はそんなことは言っていませんが。)マルクス主義がダメになり、サルトルのようなより人間的なマルクス主義をめざす試みも失敗してしまった。そこからデリダは、マルクス主義や実存主義もそれを疑うことがなかった、 真理や人間、 主体といった哲学の概念を根底的に疑い、問いなおしていくという作業をはじめたのだと思います。
一昨年のベストセラーになった、東浩紀という若い研究者のデリダ論は「存在論的・郵便的」というタイトルでした。 郵便的、 という一見奇異な言葉は、「伝達」を問題にしているから出てきた言葉です。(東が取り上げているデリダのテキストのひとつは「真理の配達人」という題名です。)伝達はコミュニケーションとも言いかえられますが、コミュニケーションとは実は、まさにこのメールのように届くか届かないかあやふやだったり、届いても宛て先の人が読まなかったり、読んでもチンプンカンプンだったり、誤読されてしまったりといった根源的な不確実さにひたされています。
デリダは、ソクラテス以後の哲学を「音声中心主義」と呼んで批判しました。これは何かというと、音声というものが、文字に比べて透明に純粋に真理を伝えるメディアだと考えられ、そのことが真理についての考え方の前提になってしまっている、ということです。たとえばソクラテスは、「考えるとは心の中で対話することだ」と言いました。心の中で対話するというとき、実際には自分が発した声を自分自身で聞いているわけですから、意味のとりちがえようがないわけです。実際のコミュニケーションはそんな風にはいきません。しかし哲学では、そうした他者性を欠いた内省、自己内対話が、真理を考えるさいの根底的なモデルになっており、そこからすべてが発想されてしまっている。それが間違いのもとなんだとデリダは言いたいわけです。(そして東浩紀によれば、郵便のように不確実で不透明で、我が意のままにならないメディアこそが真理の可能性の条件であり、その上にすべての前提を移し変えて発想すべきなんだ、ということになるわけです。)

ところで、私が書いている「内声の政治学」というのは、そのデリダの発想をもういちど裏返して、でも、私たちが心の中で発する声(内声)というのは、もともと実際には透明に真理を伝えるメディアなどではなく、まさにソクラテスのダイモニオンの声がそうだったように、あるいは分裂症患者の言語幻覚のように、どっから聞こえてくるのか分からないような、自分の思いのままにならない、つねにすでに他者性にひたされたものなんじゃないの? という発想が出発点になっています。これは、自分では哲学史を塗り替えるようなすごいアイディアだと思っているのですが(笑)、アタマが悪いのでうまく理論的に敷衍することができず苦しんでいます。
この「内声」というテーマは、明らかに宗教の根源に通じています。たとえば祈るという行為は、心の中でつぶやく自分の声を神の声として聞く行為だと思います。(念仏もそう。)するとそれは、自分の声を自分で聞くという自己内対話のモデルから、最初からはみだしていることになります。私は、そうした他者性にひたされた内声の場(「内声とは他者の言語である」)こそが、宗教や倫理、道徳感情といったものが発生してくる根底だと考え、そこからヘーゲルやキルケゴールのいう「精神」や「主体」といったものをもういちど考え直してみよう、と思っているわけです。
(2000/7/17号掲載)

               
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