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子供のころ、外を歩いているとき、知った人に遇うのが不安だという気持ちによく襲われた。学校をさぼっているとか、何かやましいことをしているわけで はない。それでも、誰か知った人に見られたとき、「なぜいま自分がここを歩 いているのか」を説明しなければならない(そしてそれは説明できない)、と いう気がしたのだった。
大人になった今でも、同じような気持ちに襲われることがある。たとえば、き れいな女の店員がいる店で買い物をし、店を出て家の方に帰ろうとする。そこ で、買い忘れたものに気づき、店に戻ろうとする。しかし、さっきの店に戻っ たのでは、その女店員に気があるのではないか、と思われるかもしれない。そ こで、その店を通りすぎ、同じものを売っている別の店に行こうとする。店の 前を通りすぎるとき、女店員に見られたら、なぜ同じ道を逆行しているのか、 私に気があるのではないか、と疑問をもたれるかもしれないという不安がよぎ る。さて別の店で買い物をすませ、再び道を戻って最初の店の前を通りかかる と、またあの客は店の前を歩いている、私に気があるのではないか、と思われ はすまいかと考える。おまけに今度は別の店の袋を手に下げ、中には最初の店 でも買えたはずの商品が入っている。この行動をどう説明すればよいのか。頭 の中で声が弁明をはじめる。
弁明がうまくいけば、きちんと物語を語ることができれば、不安はないのかも しれない。しかし弁明は常にうまくいかない。そもそも、弁明を必要とするよ うな行為をしているということ自体が、行為の透明さを裏切っている。

そもそも、「なぜお前はここにいるのか?」という問いに、答えなければなら ないという感覚はどこから来るのだろうか。
母の胸に抱かれて甘えているとき、そんな不安はない。なぜ乳を触っているの か、などと問われることはないからだ。学校の開講時に、教室のイスに座って いる。そんなときにも不安はない。共同体の規範どおり、いるべき場所にいる からだ。
「不安」とは、声に問われることだ。
(2000/9/4号掲載)

               
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