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精神分析家の新宮一成がこんなことを書いている。一年中母の幻声を聞きつづけているある分裂症患者が、初めて幻声を聞くようになったとき、彼は「自分は大人になった」と直観したというのである。
「それまでずっと、「大人とはどういうものか分からない」、「大人は天才である」というのが彼の考えであった。しかし声が聞こえてくると同時に、彼は、大人には皆「声」があるのだということ、そしてまた「声」が聞こえるようになった以上、自分も大人になったのだということが分かったのである。「大人には「声」がある」と彼が言うのは、「大人は「声」を聞いている」という意味である。「声」のない状態は、子供の状態である。あとから彼が考えたことだが、子供はお母さんに甘えることができるから「声」は要らないのである。そして大人になると「声」が出てきて、人は、「エライ人」になるのである。」(『無意識の組曲』岩波書店)
この患者の話に導かれて、新宮は次のように考察する。
「…私はあるとき、彼ら(交通整理のガードマン)の一人が、まるで柱時計の振子のように無気力に旗を動かし続けているのを見た。/その時私は、その人が「働け」という声を聞いているのではないかとふと思ったのである。彼はこの声におびえて、声に言い訳をするために、旗を動かしているのではないかと。(中略)この「声」は、おそらく、ひとりひとりの人間の中にだけあるようなものではなさそうである。それは、この社会の生産体系を支えかつ動かしているようなものとして、至るところに充満しているのではあるまいか。そして、患者さんが指摘したように、「大人になる」ということは、この構造の中に、それが「声」の構造であることに気付くことなしに、入ってゆくことではないだろうか。」

私たちは、赤ん坊のときから回りをとりまく大人たちの「他者の語らい」に耳を傾けながら成長していく。新宮の『夢解釈』(岩波新書)によれば、空を飛ぶ夢とは、赤ん坊のとき大人たちの語らいに初めて参加した瞬間、つまり初めて言葉を話した瞬間を反復しているのだそうだ。子供は自分に向けられた言葉、例えば叱る言葉を自分の中に取り込み、自分の言葉にしようとする。親に叱られた同じ言葉でペットや人形を叱る子供はよく見かけるし、反響言語的に独り言で反復するのもよく見かける。子供はそうして、自分の中で痛々しい違和として響いてくる他者の言葉を、無害なものに馴致し、自分自身の言葉に転化しようと努力するのだ。
言語の習得には、いや、もっと大きく言って言葉と私たちとの関わりの根底には、常にこうした違和がある。この違和が問題なのだ。例えば、吉本隆明は「共同幻想と個人幻想は逆立する」というが、その逆立をもたらしているのはこの違和なのではないだろうか。
(2000/9/18号掲載)

               
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