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長らく中断していた「内声の政治学」を再開したいと思う。そこで、読者の記憶を改めて喚起するとともに、これからの議論をより開かれた分かりやすいものにしていくために、現時点での筆者の意図や趣旨をまとめてみよう。
「内声」とは、他人に聞かれることを想定しない私たちの心の中の声であり、心理学でいう「内語」(Inner Speech)という概念に近い。ただし、「内語」が自分で自律的にspeechするもの、と捉えられているのに対し、「内声」(In-ner
Voice と呼ぼう)は、例えば分裂病者の言語幻覚や宗教者の「神の声を聞く」体験のように、 他律的に 「聞こえてしまう」言葉も含んでいる。また、「声」というメタファーを導入することにより、自意識や内面、心といった意識一般に解消されない、ある種の「物質性」をもったものとして捉えようという意図がある。(この内声の物質性を無視して、意識一般を代理=表象し透明に真理を顕現させる非物質的なメディアとして内声を捉えてしまうような態度が、デリダの批判する「音声中心主義」である。)
内声は、社会全体を貫く大きな言語体の、特殊な性質をもった一部である。内声がぶつぶつと唇に漏れ出し物理的な音声になればそれは「独言」であり、それが周囲に聞こえる状態になるとき、それは不完全な状態でのコミュニケーションになるだろう(第5回参照)。内声の世界は、他者に対して閉ざされているが、にもかかわらず社会に対してある種の「開け」を保持しているという特殊な存在形態をもつ。
内声の起源は、あくまでコミュニケーションとしての言語である。この点で、本論は幼児の「自己中心言語」を社会的コミュニケーションの結果と捉えたヴィゴツキーの内語論を支持する。これはまた、意識が社会的な交通の産物であるとする『ドイツ・イデオロギー』でのマルクスの見解を支持することでもある。(第12回参照)
しかし、「他者に聞こえないところで声を発する(聞く)」という内声の特質は、コミュニケーションの問題一般に解消されない特殊な問題を招き寄せる。「自己」の発生、「建前」と「本音」の乖離、プライヴァシーの問題といったものがそれである。内声をそれとして意識して発してみたとき、子供は始めて「自分」というものを意識するのではないだろうか。また、内声がなければ、「建前」と「本音」の乖離やプライヴァシーの問題も生じないのではないか。
先日公開された『サトラレ』という映画は、自分の心のつぶやき(内声)を半径十メートル以内にいる他人に聞かれてしまうという「能力」をもった超能力者・サトラレが主人公である。サトラレは高度な知的能力も備えているため、国家によって手厚く保護されている。問題は、サトラレが自分の内声を人に聞かれているということに気がつくと、ショックのあまり自殺してしまいかねないという点だ。そこで本人がそのことに気づかないよう、周囲の人間は多大な努力を払ってそれが「聞こえていない」という演技をする。映画を見れば分かるように、そのために費やされるエネルギーは滑稽なほど膨大なものだ。内声がなければ、あるいは別の言い方をすれば内声と社会的言語とを隔てる壁がもともとなければ、そんな努力は必要ないのに。この映画は、私たちが自明のもののように思っている、自己というものを画する壁の不思議さをあらためて考えさせてくれる。
その点で、大きく言えば内声論は「自己」や「意識」というものの存立機制を言語の相に沿って解明しようという試みである。また哲学的には、それは「他我認識」の問題にも通じている。
また、内声はラカンのいう「他者の言語」である。先に内声はコミュニケーションの言語に由来すると書いたが、その端緒では子供は言葉をもたない存在として、大人が形成する言語コミュニケーションの世界に受動的に入っていく。そこで、映画『ポネット』でも見られるように、例えば子供が親に叱られたのと同じ言葉で人形やペットを叱るといった事態が生ずる。人間は、もともとは他人のものであった言語というもの、もともとは自分と敵対するよそよそしいものであった言語を、自分のものとし自己の拠り所として生きていかなければいけないという逆説を抱えている。おそらくは、ドストエフスキーが「意識の二重底」と呼び、埴谷雄高が「自同律の不快」と呼んだ根源的な生の不快感は、このことに根を持っている。
本論は、筆者が子供の頃、自分の内声が「いやでいやで堪らなかった」という経験に端を発している。内声のことを考え始めたとき(なぜ内声はこんなに不快なんだろう?)、最初に思い至ったのは「内声とは父の声ではないか?」という考察だった。しかし、これは悪しきエディプス的解釈というものであろう。実際には、内声は自分が社会で出会ったすべての他者の声である。つまり、内声とは複数の他者の声である。赤坂真理の小説『ヴァイブレータ』の主人公が、いかに多様な内声を聞くかを参照してほしい(第4回参照)。
内声は複数の声である。このことは、意識や人格の複数性といったものの基盤をなしている。そうした複数の声を抱えながら、私たちが一個の人格として主体的にふるまうにはいかなる条件が必要なのか。これも本論の探究の大きな課題である。
たとえ内声が父の声でないとしても、これがフロイトのいう「超自我」といったものの存立に大きく関わっていることはたやすく想像できる。「関心の呼び声としての良心」を論じたハイデガーや、それを受けたデリダの責任論などをも導きの糸として、内声と倫理という大きな問題圏に至りつくことができる。例えば、カントのいう定言命令は、内声の愛憎渦巻く世界の中でどのように位置付けられるのか。それは誰が、どんな声で発するのか。命令とはもともと他人にされるものである。それを自分のものとして受け止め、喜びをもって従うにはどんな条件が必要なのか…。内声の構造を解き明かすことは、良心や正義、主体性といった倫理の根源を解き明かすことである。
とりわけそこで重要なのは、宗教にかかわる問題である。キリスト教における預言やソクラテスのダイモニオンなどを想起するまでもなく、宗教の発生には心の中で神や超越者の声を聞くという体験が大きな役割を占める。またキリスト教における祈りや告白、仏教におけるマントラや念仏など、内声において超越者に呼びかけるという行為は、しばしば宗教儀礼の中心として重要視される。内声は、宗教の本質にかかわる問題である。
ところで、先に述べたように、内声とは社会全体を貫く大きな言語体の一部である。「他者に聞かれないところで言葉を発する」という内声状況が生じるのは、決して一個の個人の内部だけではない。個人の内声を論じるのと同じように、「共同体の内声」や「国家の内声」を論じることができる。また、個人の内声と倫理との関係を論じるのと同じように、掟や法律の問題を論じることができる。このように、内声を複数の声がせめぎあう政治空間として考えることを基盤として、個人の内面の問題と共同体のさまざまなレベルで起きる政治的な問題とを通底して考えることができる点が、本論の大きなメリットであり、本論が「内声の政治学」と題されている所以である。
こうした特質を生かして、本論ではすでに近年のナショナリズムの言説に対する批判を(不充分ながら)試みている(第21回参照)。また、政治的な領域に関わる問題として、本論では特に、80年代以降の世代の政治的アパシーの問題(私たちの世代はなぜ、気恥ずかしさを覚えることなしに政治的課題を口にできないのだろう?)を内声論的に解明することに力点を置きたいと考えている。
さらに、多言語・多文化のせめぎあう政治空間に内声をおいて考えてみた場合、フェミニズムやポスト・コロニアリズムなどが提起するマイノリティの政治学の問題(サバルタンは語ることができるか?etc.)にも内声論は大きく貢献することが予想される。これまであまり語ってこなかったことだが、実は内声が複数の他者の言語であるとは、言いかえれば多言語状況こそが内声にとって本質的な状況だということだ。われわれは誰しも、子供のときはマイノリティとして外国語圏に生きているようなものだからである。
その他にも、さまざまな課題が提起されよう。例えばセクシュアリティと内声の問題。片恋をしたりオナニーをしたりするとき(どっちも同じようなものだが)、人はいかに多様な内声を心の内で聞き、いかにそれと複雑な関係を取り結ぶだろうか。さらに口承文化と文字文化、ラジオとテレビといったメディアに関わる問題。インターネットの言説空間を分析するのにも内声論は適している。例えば数か月前に起きた沖縄駐留米軍の調整官が、メーリングリストで密かに書いた悪口がなぜか新聞に報道されてしまい、謝罪に至ったという事件などは、インターネットの内声性を強く印象づけた。
そのほかにも、文学と内声、演劇と内声、革命と内声、スターリニズムと内声、分裂病と内声、第二言語習得と内声などなど。ああ、もうきりがない。
こうした膨大な問題群の前に、筆者は徒手空拳で立っている。その解明のためには心理学・社会学や言語学、精神分析学などさまざまな理論的武器が必要だが、筆者はそうした知識をほとんどもっていない(悪いけど)。また理論構築に求められる粘り強い思考力といったものも、てんでもち合わせていない。これは、ほとんどパンツ一丁でエベレストに登ろうというような無謀な企てなのである。
だから、切に求める。私には読者諸賢の手助けが必要だ。「そんな大切なテーマを、こんなバカ一人に任せておけるか!」という義憤にかられた読者が、苛立たしくキーボードを叩きながら議論に参加してきて下さることを願って止まない。(2001/5/21号掲載)
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