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 「サトラレ」とはどういう事態か。マンガ『サトラレ』のコミックス1巻では次のように説明される。
 「先天性R型脳梁変性症…。口に出さなくとも思ったことが周囲約50mにつつ抜けになってしまう謎の奇病。…それは常人とはかけ離れた意志の強さ、あふれんばかりの情念が、結果として、まさに水がめの水があふれ出すごとく、思念波となって外にもれ出てしまうからだ、といわれています」
 (ところで、サトラレという発想の原点は、マンガなどでよく言及される「サトルの妖怪」という読心能力をもつ妖怪のようなもの、の裏返しだと思うのだが、サブカルチャーにうとい筆者はこのサトルの妖怪なるものが何者かを知らない。読者の教示を乞う)
 問題は、この「思念波」なるものがどんなものか、ということだ。マンガでは、サトラレの思念波(つまり思ったことの内容)は、吹き出し外で太字の文字で表記される。映画では、当然のことながら音声によるセリフで表現される。つまり、主人公のサトラレを演じる安藤政信の音声で表現される。
 サトラレの「思念」は、通常は言語で表象される。ただしマンガには、「西山君(恋するサトラレ)の言葉にならない期待に満ちた思念が伝わってきた」という言及もあり、思念波がすべて言語で伝わってくるとは限らないことが示唆されている。
 さて、この事態が実際に起こったとしたらどうなるだろうか。まず、「言葉にならない」その人の心的内容(情緒といったものも含め)がすべて他人に伝わったとする。すると、それを受け取った他人は、それを自分自身の心的内容とどう区別するのだろうか。おそらく区別はつかないだろう。あるいは、人の心的内容全体は当人の主観性のもとにあるわけだから、極端に言えば、人の心の内容が伝わってくるとは、その人の人格全体が乗り移ってくるということになる。つまり「私」が「彼」になってしまう。これでは、目の前にいる「彼」の心的内容を「私」が理解したとは言えない。これはトマス・ネーゲルが『コウモリであるとはどのようなことか』で論じているのと同じようなアポリアである。
 では、伝わってくるのが言葉だけ、言語のかたちで表象された心的内容(つまり内声)だけだとしたらどうだろうか。これなら、聞き取ることが不可能でなさそうな気がする。しかしそれは、外的なコミュニケーション、社会的対話のモデルをこの事態に当てはめて考えるからそう思えるだけで、実際には不可能である。なぜか。
 内声とは複数の他者の声である。私たちは心の中で、自分の声だけでなく、父の声や会社の同僚の声や総理大臣小泉純一郎の声を、普段から聞いているし、話している。すると、目の前にいる健一クンの声がたとえ思念波となって伝わってきたとしても、洋子さんはそれを自分自身の内声だと思ってしまうだろう。また、健一クンの思念波が彼自身の声であるとは限らない。彼の祖母の声であったりする可能性もある。洋子さんには何が何だか分からないだろう。
 映画では、サトラレの「思念波」は主人公健一を演じる安藤政信の声だけで聞こえてくる。だから、鈴木京香演じる洋子はじめ他の登場人物にもそれが健一の思念であることがただちに分かるし、観客にもその事態が理解できる。しかし実際にはそんなわけにはいかない。サトラレがサトラレであることを周囲の人が識別するには、「健一クンの近くにいると変な気持ちになる」とか、何人かの人が話し合いをもたなければならないだろう。しかしそんな「心の秘密」を人々が打ち明けあうだろうか? これを煮詰めていくと、「サトラレはサトラレない」というパラドックスに行きつく。サトラレはその存在を知られない。つまり、サトラレはとっくに私たちの身の回りにいるのかもしれない。
 映画では、主人公のサトラレは外科医である。このシチュエーションは、マンガの第4話「サトラレには向かない職業」から取られている。なぜサトラレは医者に向かないか。言うまでもなく、守秘義務を守れないから。その病状を本人に秘さなくてはならない重病患者に、病状を知らせてしまうことになるからだ。(マンガにも出てくるが、「インフォームドコンセント」という言葉が思い起こされる)
 映画のクライマックスは、サトラレであるためにすべての重大手術から排除され転勤を勧められてきた主人公が、はじめて重症のガンである祖母の手術を担当させてもらうという場面である。その手術中の主人公の真剣そのものの「心の声」が、周囲の登場人物の感動を誘い、かつ観客の感動を誘うということになる。
 事実、その映画を見た時の映画館は、客席を埋める安藤政信ファンとおぼしき女の子たちのすすり泣きの声で満たされていた。何がそんなに彼女たちを感動させるのか? もっとも、この映画はそもそもが使い古された常套的な手法で観客に感動を強要する類の「泣かせ」の映画なのだが、そこに何か「核心」のようなものがあるとすれば、それは主人公が心の中で自分自身の声で話しているという、ありえない事態に対する感動であろう。内声が自分自身の声であること、そしてそれが外に向けられた声と一致することが稀であることを実は誰もが知っており、観客はそのシーンに「本音」と「建前」が一致するというありえないユートピアを見て感動しているのである。
 主人公の祖母は、サトラレである健一と一緒に暮らしていてつらくないか、という洋子からの問いに「あの子は、他の子よりも声が大きな正直な子なだけですから」と答える。このセリフは、深い含蓄に富んでいる。しかし、実際にはそんな人物は存在しえない。
 前回引用したコミックスの帯には、こうある。「彼のピュアなココロの声を聞くうちに、自分達が見失いかけた『本音で相手と向き合う』事の大切さに改めて気づき始める…」田中外相に人気が集まるのも、人々がそこに同じようなユートピアを夢見ているからなのだ。(2001/06/25号掲載)

               
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