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夜、東京から京都に向かう新幹線の車内で、デッキへの扉の上に掲げられた電光サインボードがニュースの文字を流す。

 「朝日新聞ニュース…小泉首相が田中外相の訪米を『満点じゃないの。なごやかな日米関係を確認してよかった』と評価」

 今、流れたニュースは何だったんだろう?と私は眠い目をこする。この手の電光掲示板では、限られた文字数でニュースを伝えなければならないため、通常は要点だけを省略化して伝える表現が用いられるはずだ。その点、「満点じゃないの」という表現は異様である。そこで私は理解する。現在の「日本人」にとって、人気があるとされる小泉首相の「価値」は、この手の肉声を思わせるような語り口にあるのだ、と。試しにこのニュースを外国語に訳してしまえば、どこにニュース価値があるのかほとんど分からなくなるだろう。「満点じゃないの」という小泉の言葉は、電光ニュースの文字数制限の中でも省略を許さない、ある種の価値を帯びた表現なのだ。そして、その価値を理解できるのは日本人だけ。つまり、これは日本人という「国民(ネーション)」の内声なのである。

 

 先に(第9回)、永井荷風がラジオの音声を異常なほどに嫌ったということに触れた。そのことについて、江藤淳は『荷風散策−紅茶のあとさき』(新潮文庫)でこう書く。

 「そのこと(荷風にとってのラジオの意味)を知るためには、この小説が書かれた昭和11年(1936)という年の世相を思い起こしてみる必要がある。二・二六事件の勃発についてはすでに記したが、そのとき発布された戒厳令が解除されたのは同年7月15日のことであった。つまり、荷風は、戒厳令下にあえて玉の井近傍の散策をはじめ、『墨東綺談』の着想を得たのであった。/一方、『放送五十年史』(日本放送協会)によれば、昭和7年(1932)2月に全国で百万を超えるにいたったラジオの受信契約数は、昭和11年末には実に290万を突破していた。/これだけ普及するにいたったラジオ放送が、何よりも精力的に伝達しようとしたのは政治的メッセージである。その最も緊急なものが戒厳司令部の「兵に告ぐ」の呼び掛けであり、その日常的なかたちが荷風散人のいわゆる「九州弁の政談」のたぐいであることはいうまでもない。あるいはここに、当時の首相広田弘毅が、福岡県の出身であったことをつけ加えて置くべきかもしれない。/政治的宣伝と並んで、道徳の鼓吹もまたラジオ放送の重要な使命の一つであった。「忘れちゃいやよ」「月が鏡であったなら」などの“退廃的”な流行歌に代るものとして、島崎藤村作詞による「朝」や「椰子の実」などの「明るく、健全」な「国民歌謡」が制定され、放送されるようになったのもこの年のことだからである。/つまり、「ラデイオ」とは、騒音を発する器械であると同時に、今日にいたるまで放送が依然としてそうであるような、政治と道徳の宣伝の具であった。荷風は、放送というものに生得なこの属性を敏感に看破り、それをほとんど生理的に嫌悪したのである。」

 引用が長くなったが、上の記述は荷風が生きた当時のラディオが流していた「国民の内声」の実態の、ひとつの側面を生き生きと伝えてくれる。

 しかし私は同時に、ラジオで荷風が聞いたそれらの言葉が、いったいどんな「声」で語られていたかに興味がある。(この項続く)

               (2001/07/02号掲載、以下連載中)
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